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2023-2-25

 京都で行われた『金福童』(2019, ソン・ウォングォン)上映会に、後輩に誘われて行ってきた。

 日本従軍慰安婦犠牲者として1991年に表に立って証言を始めた女性の活動、そして一人の人間としての生き様を追ったドキュメンタリー映画。この記事では、映画を観て感じたこと、考えたことを記録していこうと思う。

 慰安婦問題。慰安婦少女像。日本の加害の歴史は、学校教育の中でほとんど扱われないか、教員の裁量によって触れることもあるか。とにかく国家としては覆い隠し続けている。自分が日本の加害の歴史をあまりに学んでこなかったと気づいたのは入管問題に取り組むようになってから、つまり大学生になってからのことだった。教科書に記述があったことは覚えている、だけど"南京大虐殺"と併せてすっ飛ばされたことで逆にそれらの単語自体が「なぜか触れられなかったもの」として、記憶に残っていた。

 当事者の声を全く聞いたことがなかった、この映画で初めて聞いたのではないかと思う。彼らがどんなリスクを冒し、どのくらいの覚悟を持って、毎週水曜日に日本大使館の前で謝罪を求め続けていたのか。少女像は彼らにとってどんな意味を持つのか。それでも「慰安婦問題は"不可逆的に"解決した」とすることを認める日韓合意は強行され、賠償金としてではなく「見舞金」10億円を受け取るようにと、韓国政府はハルモニたちを説得する。彼女らの声はいとも簡単に踏み躙られる。「踏み躙る」の言葉がぴったりと当てはまる。

 「見舞金」。ああ、そうですか、辛かったですね、かわいそうですね、哀れですね、日本国家としてはそんなことした覚えはないけど、あなたたちが辛かったことには同情します、はやく元気になるといいですね。それで、そういう活動をやめてもらえると助かります。

ーー-それは、彼女らの声を抑圧するには飽き足らず、もはや抹殺しようとする「手切れ金」にすぎない。

 決して国家vs国家なのではなく、対立構造は抑圧者ー被抑圧者、つまり「慰安婦問題は解決した」という日本政府の一方的な見解を受け入れ、そして受け入れるようにハルモニたちを抑圧した韓国政府も抑圧者・加害者なのであり、ハルモニたちは「裏切られた」と言っていたけれど、その本質が露呈したということだった。

 人の痛みを、苦しみを、侮辱し、踏み躙り。18にも満たない幼い少女は何も知らされず騙されて連れていかれ、性欲処理の道具として来る日も来る日も暴行を受けた。そしてそれは戦争が終わり用済みとして捨てられたあとも長い人生のなかで死ぬまで背負わされるのだ。その計り知れないほど深い傷と痛みを抱えて、それでも二度と犠牲者を出さないためにとありえない数のバッシングを浴びながら、またそのなかで幾度となくセカンドレイプを受けながらも声を上げ続ける彼女らの強さ、力を抑圧者は知る由もない。虐げられた彼女らの傷を、「自分たちがいかに都合よく立ち回り利益を得ていくか」の道具として利用することしか考えていないのだから。
 
 いったい世界で、この社会で誰のため、なんのための政治が行われているのか。あらゆる社会問題と地続きであることは言うまでもない。

 上映後、京都朝鮮学校の学生たちのアピールがあった。ある学生は「小学生の頃は朝鮮人差別の問題があることは分かっていても、漠然としていた。だけど、中学生になって深く考え始めた。そして火曜デモに参加し始めた」と。朝鮮学校を高校無償化の対象から除外した問題だ。私たちは、誰に何を考えさせているのか、声をあげざるを得ない状況を作り出していたのはいったい誰だ!紛れもない、無関心によって差別を容認してきた私たちであって、彼らに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


 まとまりきらないけれど、入管問題であろうが、障がい者問題であろうが、この慰安婦問題であろうが、そこには当事者がいて、当事者の痛み・苦しみを無かったことにしようとする支配者たちがいる。けれど、彼らは決して弱者ではない!彼らの声には力がある。事実、私の隣で涙を流しながら映画を観ていた一人の学生の心を動かしている。

 証言者のハルモニたちは、決して韓国の女性たちだけを自分たちと同じような目に遭わせないために闘っていたのではなく、この世界で二度と同じような目に遭う人が出ないようにと、身を粉にして飛び回った。怒った。声を上げ、何度も同じ話をした。

 私が今目の前にある問題に取り組むことは、彼女らの意志を引き継ぐことであると思った。

日本従軍慰安婦の犠牲者として1991年に証言活動を始めた김복동(キムボットン)さん。

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