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頼ることって、手を抜くこととは違うから安心して大丈夫ですよ


やさしいひとに傷がつかないでほしいと思った
今日も、それだけ

誰のことも傷つけないことは不可能だけれど、
誰のことも傷つけないように気をつけることは出来ると思う。


「さみしい」が分かるということは、
「さみしくないとき」ときを知っている、それはそれでしあわせな人生ということなのかもしれない。


ひとりでも生きていけることが強さなんだったらそんなの要らないから
本当に欲しかったのは誰かに寄り添える弱さのほう
同じ景色を違う言葉で伝えあうことが出来るから、
貴方と、あなたと、居る意味があるんだと思う。

よくさ、
「許せるひとはつよい」と聞くけれど、それはきっと
許すことの手前には悲しみがあって、
その悲しみを乗り越えるつよさのことも指して
いるのだと思う。

他人に酷いことを言われたときは、
他人にそんなことを言わない自分を誇ればいいよ、ね

誰かにかけてあげる言葉 は、
本当は自分がかけてほしい言葉なんだよきっと。
”だからこそ”自分がほしかった言葉だから、そんなかつての自分と似たようなひとに優しいことばをかけることができる。
そのひとがほしい言葉ではないかもしれないけど、完全に私のエゴだけど、その言葉がないよりマシかなって。


逃げるのはいつだって簡単で、それでも諦めなかった先に明日はあるって話、私は信じているからね

昔の私が描いていた、
当たり前に来るものだと思っていた未来は来なかった。
随分とかけ離れたところで生きてしまっている。
今の自分とか、今までの道のりとか選択とか、
受け入れた訳じゃないよ。受け入れざるを得なかっただけだよ。


自分で自分を制御できなくなるとき、本当に苦しい
どうしてわたしはこんなにも情けないのだろうと落ち込む
「こんなはずじゃなかったのに」と思うことが多すぎる、
ほんとうに生きることが下手くそ
生きていく理由なんて自分で作っていくしかないのに、
心はちっとも満たされない
人生楽ありゃ苦もあるさと言うけれど「苦」の部分が圧倒的に多いと思う。
いつも「正しいこと」は大体分からないから、自分がなにを善しとするかずっと考えてる。
他人が「なにを大切にしているか」って他人と関わる上で重要なことだと思うけど、それは大抵訊ねてみたり確認しないと知ることが出来ないから、
目に見えるものだけが全てじゃない、っていつもちゃんと分かっていたい。

いつも思うけど、「頑張っている」と「無理をしている」は間違えやすい。
ちゃんと自分にフォーカスして見極めなければならない。
無理は環境を変える必要があるかもしれないし、効率もとても悪い。

気合でなんとかなるものじゃないから”病気”であって、
それにずっと苦しんでいるわけだけど、まだ心のどこかでは気合でどうにか出来るんじゃないか、自分が甘えているだけなんじゃないか、とずっと思っている。

虚しさの理由を、悔しさの理由を、やるせなさの理由を、
うまく言葉に出来なくて涙が出る。
言葉にすることは感情の弔いだと思っている。
ちゃんと説明がつかないと成仏しない、
気持だけがずっと彷徨ってしまう。
どんな時でも感情の言語化を放棄しないし、放棄するわけにはいかない。


死ぬまで全力疾走も100点を出し続けることも無理で、
誰も私に満点なんて求めていないし期待もしていなければ興味もないということにやっと気付き始めた。
ずっとひとりで勝手に苦しんでいただけだった。
たとえ”ふつう”という言葉を使って責められたとしても、
それはそのひとのふつうでしかないから、
気にしなくてだいじょうぶなんだよ
大丈夫、この言葉がおまじないであったとしても
こころにあるだけで大丈夫になるから
って自己暗示なんだけどね

ひとは弱くて壊れやすくて、病むことも倒れることもあるじゃないですか。
それは当たり前のことですよね、
だから、修復する。治そうと思う。
それが「出来る」と信じている。
しかし翻って日本では弱さを認めない。
弱い者は負けで、壊れないのが正しい。
壊れたらもう退場で、悩んでいることすら恥ずかしい。
相も変わらず根性論で世界は回っているんです。
でも、弱くて当たり前だと、思う自分が居てもいいじゃありませんか。

だれかにとってのなにか、でなければ生きられないんですか?
そんなことないでしょう。
もうどう転んでも大丈夫、
わたしたちの物語はハッピーエンドでしか完結しないから。

私の文章で人生が小さじ1杯だけでも楽になりますように、そんな思いを込めて記事を描いています。 サポートして下さった貴方と、いつか珈琲が飲めますように⋆͛☽.゚