あったかもしれない日記#1

こんなことがあったかもしれない。

近所の図書館まで本を借りに行った。
家から徒歩5分程度の道中、必ず通りがかるマンションがある。ぱっと見たところ築20年前後あたりだろうか。古くも新しくも見えない凡庸そのもののマンション。
ただ一つだけ気になるのは、3階建て各階4部屋の郵便受けのうち、10個の取り出し口にぴったりと不要な郵送物が入らぬよう、養生テープが貼ってあることだ。
すなわち、空き部屋ということだ。――12部屋中、10部屋が。
1階の廊下奥の角部屋と、3階の中央付近の部屋だけが郵便を受け入れていて、しかも住人が定期的に中身を受け取っている気配がある。
しかし、その住人の姿を見たことはない。
私の記憶にある限り、というかそのような物件だと気づいてから1年近くこの状態が続いている。

図書館で本を借りてその帰り道、ついでに近所の定食屋で夜飯をすませた私は件のマンションの前を通りがかった。時間も遅くになると、ちょうどこの小道は街灯が間遠になるせいもあって、妙な薄暗さがある。

マンションの前を通りがかると、人影が郵便受けの前にいるのが視界に入った。
――住人か? 奇妙な興奮を覚えた私は、マンションの前を歩く瞬間、わざと歩調を緩めて、その姿を出来る限り長く見ようとした。ちょうど玄関ホールの入り口から、郵便受けから郵便を取り出す男の後姿がのぞいている。
生気がない、という言葉に人の形を取らせたような立ち姿だ。

特徴のないくすんだ色のジャンパー、色褪せたジーンズ、皮脂でべたついた密度のまばらな長髪。緩慢な動作で郵便受けから取り出した印刷物を取り出している。昔の映像資料で見た赤紙みたいな紙片が、薄暗い蛍光灯の灯りに妙に映えている。
男が手にした紙のくすんだ黒味を帯びた赤さがさらに私の目を惹きつけ、もう少し男の様子を見ようと、半ば私が立ち止まりかけた瞬間――スマートフォンが振動した。
静かな夜の路地に、その振動音は思ったより大きく響き、男が郵便受けを探る動作を中断した。

なぜだろうか、『見られてはいけない』という強い確信があった。
走る足音すら響かせぬよう、息を潜めて静かに、急ぎ足で、振り返ることなく私は路地を抜け、20メートルほど先の角で曲がってからは全力で走って家に帰った。

これが年明けて間もない頃の話。
以来、そのマンションの前を通ることをやめて遠回りするように図書館に通うようになった。
単なる妄想の類だとしても、君子危うきに近寄らずという言葉もある。ホラー漫画の巨匠、伊藤潤二の作品から私たちが学べることは、とにかく怪異と直に触れてしまったならどうあがこうとまともな結末がまっていないということである。
そんな、読む側からすれば私の単なる被害妄想に近しい、毒にも薬にもならない出来事を、どうして書き記しているかというと、なのだが。

今しがた、私のマンションの郵便受けに、あの男が手にしていた赤い紙が皺だらけになって押し込まれていたからである。

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