わたしと、編み物
わたし周りの”好き”をつらつらと書き綴る、「わたしと、〇〇シリーズ」第2弾です。
今まで「編み物をする」と、ちょこちょこと書いてきましたが、このところあまり編み物に心が向いていませんでした。
というのも、単純に「作りたいものがなかった」からに過ぎないのですが。
ですが、また最近ちょっとずつ再開しはじめたので、これを機に今一度「編み物」について、わたしの手の届く範囲でのことを書いてみたいと思います。
暮らしの中で思いつく「あったらいいな」を形にする編み物
まず、わたしの中で編み物(を含めた手仕事)のいちばん大きな意義は、暮らしの中の「あったらいいな」を形にし、長く使う道具を生み出すことにあります。
日本では「手仕事」と「手芸」「ハンドメイド」が、なんとなくごっちゃになっているイメージなのですが、特に後者2つは小物とかアクセサリーとか、暮らしの道具とは直接関わらないものに対して使うのかな?と認識しています。
一方で「民芸」「工芸」といった言葉もありますが、特に工芸ともなれば実用性+美を重視していると言えます。でも対象としては、暮らしの道具が多いイメージで、作り手さんは特定の道具をデザインしたり、実際に手を動かして作る、いわば「職人」になりうるのかな?と。
だから、わたしが自分のやっていることを「手仕事」と呼ぶのは、あくまでも日々の暮らしのすき間にちょこちょこ手を動かし、自分や周りの人の暮らしを豊かにする目的でやっているから、というのが強いです。今のところ。
たまたま編み物を始めた場所が、毛糸やさんが豊富で、編み物の習慣が根付くノルウェーだったこと、しかも仕事をやめる直前だったこともあり、辞めた後の、さらに出国後のさすらい旅の中で、時間がたっぷりあったことが大きかったです。
でも、その中で友人の「編み物ほどプロダクティブな趣味はない」という言葉や、編み物を通して育まれる想像力&創造力に、自然と取り憑かれていきました。
思えば、幼い頃から母親がわたしとイモート(はい、双子です)のために、衣服や帽子、カバンといった道具を作ってくれていた影響もあり、普段から「この服はどうやってできているんだろう」みたいな興味は、かなりありました。
高校時代に選択授業か何かで自発的に設定したテーマ「ヴィンテージ古着について」で調べたことや、そこから大学時代にかけて服や生活道具の素材・生産工程を気にするようになってから、時を経て編み物をはじめるに至った流れは、もしかすると必然だったのかもしれません。
そんな感じなので、わたしが作るものは総じて「日々の暮らしに使うもの」に限っています。
帽子やセーターはもちろん、靴下、ルームシューズ、ストール、小物ケース、などなど。
そして何より、あくまでも「使うぶん」しか作りません。だからYouTubeとかで定期的に編んだものを披露するチャンネルとか観ていると「そんなにたくさん編んで、どうするの・・?」と勝手に心配してしまう。
でも、まあ、その辺は置いといて。自分が作ったものは、だいたい100点なのです。作る時間を共にしたから、喜びと愛しさはひとしお。
もしその時点では100点満点じゃなくっても、一度編んで構造と必要スキルがわかっているので、ほどいて編みなおすこともできちゃうんだな、これが。
もともと1本の糸からできているってところに、ある種のロマンのようなものを感じられるわけで。
そういう意味で、編み物は他の手仕事とはまたちょっと違う魅力を持っているように思います。
あと、もうひとつ付け加えるとすれば、手仕事は古くからの知恵に基づいたものであり、かつ自然に寄り添った暮らし方を実現する大切な手段だと思うので、わたしはできるかぎり自然素材を使います。
できるかぎり、と書いたのは、染料まで気にできていなかった時期があり、今でもフツーの化学染料で色付けされた糸を選んでしまうこともあるから。学びながら、少しずつそのパーセンテージを減らしているところ。
編み物でできるアイテムは人の肌に触れるものばかりだし、土に還るもので作った方が、初めから最後までずっと気持ちがいいものね。
自分と大切な人を思い浮かべながら編むから楽しい
自分のため・もしくは身近な誰かのためにする編み物って、ただ闇雲に手を動かすのとは違うってことに気が付いたのです。
ちょうど2年前の今ごろ、わたしは千葉のとある場所にいて、自分のためにヘッドバンドを編んでいました。
まだ来て間もない頃でしたが、すでに手編みのセーターや靴下を身につけていて、親切なことに周りの人たちは「すごい!自分で編んだの?」と声をかけてくれることがしばしば。
それで、しばらくして「併設しているカフェで売れば?」ということになり、仕事の合間や休日を使って、せっせとヘッドバンドを量産している時期がありました。
ちょうど去年の春ごろなんかは、緊急事態宣言下で「ひとりでも多くの人に、暮らしを今一度見つめ直すきっかけを作りたい」という想いから、Menulisという名前でオーガニックコットンのたわしを編みはじめました。
そしてリトアニアに渡って間もなく、せっかく素晴らしいリトアニアのウール・リネンが手に入るのなら、と思い、sumiyasを立ち上げてアームウォーマーや買い物(野菜用)袋といった小さな暮らしの道具を編んでいました。
どの時間も決してムダではなかったし、編み物それ自体はとても好きなので、特に苦ではありません。
ただ、カフェで売るのはわたしではなく別のスタッフの方にお願いしていたし(わたしは宿の人でした)、オンライン販売は誰が購入してくれるのかわからないということもあり、次第に「人に届けている感覚」が薄れてしまったのも事実。
もちろん、誰かが買ってくれていることには違いないし、購入してもらえると純粋にとっても嬉しくなるのですが、手仕事の持つ物語を語りたい性分なのもあって「う〜ん、やっぱり直接手渡したいなあ」とモヤモヤしている。今も。
一方で、オンラインでも友人が購入してくれたり、もしくは個別に「これを作って欲しい」とお願いしてくれた人たちに向けて編むときは「喜んでもらいたい・長く使ってもらいたい」という気持ちがいっそう強くなるものらしい。
一見さんお断り、という意味では全くないのですが、手仕事が個々の暮らしや地域のコミュニティ性に強く関わる道具・手段だと考えると、自分のため、もしくは家族や友人知人のためを思いながら編む方が、ずっといいものが作れるような気がします。
それに、今こうしてsumiyasをやっていて思うのは、ただ「これは本当に求められているのかな?」と疑問に思いながら色々編むよりも、オーダーしてくれる側から「こんなものを作ってくれませんか?」といってもらえる方がいいのかな?ということ。
その上で、できるかできないか・もっといいアイディアがあれば提案し、擦り合わせていくことで、初めて「長く使いたい手仕事」としての編み物ができるような気がしています。
別にアーティストでも、編み物歴が長いプロフェッショナルというわけでもないのですが、わたしが編み物をする大きな理由は「暮らしの道具を作ること」にあるので、それぞれのスタイルに合うものをお渡しし、それを末長く愛用してもらえることが、何より嬉しいのです。
Knitting Meditation(編み物瞑想)に癒される
編み物って超絶プロダクティブだ、というところを語ってきましたが、実はそれだけではない。
ちょっと前にも書いたかもしれませんが、編み物は精神的な癒し効果があるらしく、それは自分自身が経験していることでもあります。
SNSのハッシュタグなんかを見ると、KnittingMeditaion(編み物瞑想)なんていうものまである。でも、よくわかる。
わたしは音楽やPodcastを聴きながら編み物をすることも多いけれど、もうちょっと「編む」という行為そのものに集中したいときは、完全に無音で黙々と編んでいます。
そうするとね、不思議と心が落ち着くもの。純粋なパターンだと手元に注意しなくても編み進められるので、より深い瞑想状態になることもあります。
これだから編み物は、やめられないんだなあ。