シン・ミニヨンに便乗して勝手にクロス・レビューその3。マグマ、レッド・ツェッペリン、EL&P

 ということで第3回です。今回はなんといいますか、わが音楽(以外もか)人生の中でも最大級のインパクトを与えたマグマ、そして言うまでもないロック史上の超大物ツェッペリンとEL&Pと重量級の組み合わせになりました。相変わらず週末お酒飲みつつ長々と思いついたことを書き並べたものをベースとしていますが、今回はさすが大物たち、色々思いついたことがとっちらかってどうにもまとまらずに手直しに手間取ってど平日にまでずれ込んでしまいました。まあ相も変わらずのマニアの思いつきと与太ですが、楽しんでいただければ幸いです!

MAGMA : Live /Hhai


 いうまでもなくマグマの代表作中の代表作。究極音源の一つ。まあマグマを意識的に聴いて好きになった人でこのアルバムを聴いたことない人はまずいないでしょうから、今更あれこれいうのも、という話はあるのですが、例によって個人的な話から入りますと、わたしがマグマを知った83年くらいだと本作は代表作として名は高くとも、彼らの作品の中ではほぼ唯一長らく廃盤となっていて入手困難な作品だったので、初めて聴いたのは音質の悪さで悪名高いTomato盤LPから落として更にダビングを重ねたカセットがマニア間のやりとりで回ってきたやつでありました。まあ、さすがにそれは根本的に音が悪すぎていいも悪いもなんだかよくわからないとなって、結局その当時はマグマ本体よりもより直線的でわかりやすいザオやヴィドルジュを好んでいたような記憶があります。

 その印象を一変させてくれたのが1985年のLabel Du Bon Independent盤再発で、これはTomato盤ではカットされていた冒頭の”Hamatai !”からもう鮮烈な音で収録されていて、針を落としてすぐ、”Kohntark”開始数分で本作とマグマに対する印象が一変したのでした。それが今に至るまでのマグマに対する熱に至っているとなると、まあ出会い方というのも大事であるなと。
ということで重箱の隅(またかよ)を幾つか。マグマのイメージを決定づけるほどにを決定的変化を及ぼしたジャニック・トップ加入以後の体制が、’74年前半のツイン・キーボード含めた6人編成からギターとキーボードの片割れが抜けて、最終的にはクリバン、トップ、ブラスキス、ビキアロのカルテットにまでなった挙句74年10月に崩壊、クリバンとブラスキス以外は新規メンバーを探すというほぼ全とっかえ状態の中から、要となるベースに以前から何度もマグマ加入を持ち掛けていた旧友ベルナール・パガノッティ、ヴァイオリンに後にフランスのジャズ・ヴァイオリンを代表する存在となる逸材ディディエ・ロックウッド、女性ヴォイスに以前からスタジオ作には参加していたステラ・ヴァンデ、キーボードにはこの後長く在籍し、ロックウッド脱退後の77年以降しばらくはメイン・ソリストの座を得ることになるブノワ・ヴィデマン(77年バンドの人脈をつないだことでも重要)と、この体制のマグマが崩壊した後にパガノッティが結成するヴィドルジュのメンバーにもなるジャン・ポル・アスリンの二人とツイン・キーボード体制に復帰、そしてギターにロックウッドの早いフレーズとのユニゾンを確実に決める技巧派でありつつ前に出てソロを取るような演奏はほぼ全くしない影の実力者ガブリエル・フェデロー(しかもこれだけの技巧がありつつマグマ以降の演奏歴が全然見つからないのも不思議かつ影感ある)の7人編成となり、数か月間、毎日10時間以上のリハをこなし他後、75年2月からツアー再開、まずは脂が乗り始めたところでの一旦のクライマックスとしてパリ、オランピア劇場での5日連続ライブを敢行、その実況盤が本作ということに。とはいってもLPでいうところの第3面部分の”Hha、”Kobah”、”Lihns”はリハもしくはスタジオ録音だったりするので厳密にはライブ盤とも言い難いところはあったり、LP(とCharly盤系統のCD)と現行のSeventh盤CDではミックスが違いかなり音の質感が違っている、しかしわざわざ新規リミックスを施しているにも関わらず、KohntarkはLPの時と同様にパート1、パート2に分かれたままで、これは「Retrospektiw I&II」のCDではLP片面の収録時間の限界の都合でパート1&2に分かれていたWurdah ItahとMDKのそれぞれをわざわざ1トラックに編集しなおしているのになぜわざわざ真ん中で途切れたままにしてあるのはなぜ、という謎が残ったり、以前の編成で録音されている3曲(“Kohntarkosz”、“Kobaia”、”MDK”)がそれぞれ微妙(Mekanikは大分)違う曲名でクレジットされている云々云々と重箱の隅つつきはきりがなかったり……。

 そもそもSeventh盤はLPから2曲増えている、ということで改めて(Seventh盤CDベースで)収録曲を並べると、


Disc 1
1)     Kohntark Part 1
2)     Kohntark Part 2
3)     Emehteht-Re (Announcement)*

Disc 2
1)     Hhai
2)     Kobah
3)     Lihns
4)     Da Zeuhl Wortz Mekanik*
5)     Mekanik Zain
*うち、Disc 1-3とDisc2-4がSeventh 盤CDリリース時に追加された曲。

 で、先に書いたように既発曲はスタジオ版と微妙に曲名が変えてあり、この点については以前の国内盤解説だと権利関係の回避のためでは?との推測がなされていたりもしましたが、個人的にはそうした事情(この段階ではマネージャーのジョルジオ・ゴメルスキーとの間の契約上のもめごとはまだ発生していないですし)よりも、クリスチャン・ヴァンデにとって、本作収録のバージョンのそれぞれがスタジオ盤のそれとは名前を変えるに値するだけに違うものになっているとの意思の反映ではないかと思います。確かクリバンは以前未発表音源シリーズのAKTもののリリースするにあたって「ライブ音源を発表するのはその音源が従来のものとはなにか違ったものが提示できているからなのです、それがないものを発表する必要はありません」(大意)といった発言をしており、そういう意味では確かに本作収録の既発曲3曲はそれぞれスタジオ盤とは大幅に違うアレンジがなされているのですね。まあクリスチャンは人や編成が変わるたびに旧曲のアレンジをそれに合わせて変更する人であり、それは過去の数々の来日公演における定番局の変化などにもみられることですが、ここでの特に“Kohntark”(“Kohntarkosz”)に関して言えばスタジオ盤やそれ以前の未発ライブなど別アレンジの音源が複数残されている同曲において、逸材ディディエ・ロックウッドを生かし切る形として提示したかったのかなとも推測していたり。それがどの程度当たっているかはともかく、このバージョンがここまでの段階における一つの完成版であり、再結成以降の演奏もここのバージョンを基準として、そこにそれぞれの段階での個々の特質に合わせて改変が加えられているように思います(それが最も顕著に花開いたのは当時のギタリスト、ジェイムズ・マクゴウの一般にギターが取りそうなラインとは一線を画した、叫ぶようなフレージングが印象的なソロだったように)。また、”Mekanik Zain”に関してはもちろんタイトルがしめしているようにMDK終盤部のモチーフを元にしている曲でありつつ、最終部を除けばベースの早いリフから長いヴァイオリンのソロが展開されるあたり、スタジオ版とは完全に別物になっており、その中でもロックウッドの長いソロはただリフに乗せてアドリブで弾きまくったものではなく、クリスチャンが自宅にロックウッドを呼び寄せて三日間二人で合宿状態の中、コルトレーン(出た!)の演奏を参考にして、前半の提示から螺旋状に上昇して行くような構成としてディレクションしたもの(とかつてインタビューで語っていた)であるので、本人の意識としては別のバリエーション曲という意識があるのでは?とも思ったりは。そういう意味で、LPでは収録時間の都合もあるだろうけれど、第3面においてはライブで演奏されなかった曲のリハ/スタジオ音源を収録してまで、”MDK”のスタジオ盤を踏襲したような部分はカットされてMekanik Zainパートのみが収録されていたのにも、またSeventh盤CDでは”MDK”全編を収録するだけの時間的余裕はあったにも関わらず、直前パートの追加(これは1枚のCDとして聴く上での流れを作るためか?LPだと”Mekanik Zain”が片面を占めるのであの怒涛の流れにも違和感ないけど、CDで前の曲終わっていきなりあれは違和感強そうではあるので)にとどめて、前半部分はカットされたままであるのにもそうした意思が働いているのではないかなと。

 まあそうしたごたくは抜きにして、本作における鬼気迫るようなぶっ速く、バンド一丸になった高揚へとぶち進む演奏はファンクと数学的な緻密さが同居した独特の軟体的でありながら重く沈み込むようなグルーヴがあったジャニック・トップ期のライブ音源とは異なった独自の、しかし同等の感興と興奮を呼び起こすようなものになっていて、中でも”Kohntark”と”Mekanik Zain”でのそれは極地的と思いますし、また、ジャニック・トップのノリは基本的には本人以外は再現不能であるところから、トップこそマグマを象徴するベーシストでありつつも、この後の各時期のマグマの演奏はトップ期よりもこのバンドでのそれがある程度基準になるところが多くなっていて、その中で要ともいうべきベーシストは本作におけるベルナール・パガノッティの硬質でよりロック感ある演奏を手本にしている感はありますね。その意味でもマグマ史上、マグマ・スタイルが踏襲可能な様式化の原型となった重要作であるとも思います。

 これまで触れていなかった曲の中では”Hhai”はこの段階ではまだ大分、未完成ではありながら、それまでの東欧クラシックとオペラをロックとゴスペルつき交ぜたような熱狂で押し通す従来のマグマとは変わって、クリバンの半ば即興的な歌を軸にしたマグマの新しい段階の端緒となっているあたりで重要と思いますし、また、実はこの一連のライブではライブ演奏は一度もされていない”Lihns”もこの後現在に至るまで続くマグマの静の場面のとっかかりとなっているような気がする。というか本人曰く、この「ただ雨が降っている、それだけです」という曲、単純にシンプルかつ美しいいい曲で、かなり好き。もう一つやはりリハにおける演奏でライブでは演奏されていないはずの”Kobah”もファーストの60年代引きずった感じのブラスロック感あるアレンジとはことなったよりキレがある、ある意味マグマの中でもフュージョンに一番近いようなアレンジになっているのは面白いと思います。まあこの時期のこの曲の演奏であれば、後述の「Theatre du Tair」収録のそれの方がはるかに熱が入ったものとして印象深かったりもしますが……。

 そしてまだ余談。途中でも書いた、本作の”Kohntark”がわざわざリミックスまでしておきながらなぜ真ん中で切れているのかという謎。もう10年以上前にとある本職の(マニア気質もある)ギタリストの方と会話したところ、この盤収録のPart1とPart2、実は編集しようとしてもうまくつながらないのでは?という話になって、氏は音源取り込んで編集ソフトを使ってつなげようとまでしたけれど、上手くいかなかったとも語っていて、その時の仮説としては実は本作のPart1とPart2は根本的に別のテイクを用いているのではないか?というのが出たりしたのでした。確かにそれならつなげられずに真ん中で切れっぱなしのままである説明がつくのだけれども、しかしその一方では本作の”Kohntark”は5日間連続公演の本番では結局いいテイクが録れず、最終日の公演終了後にもう一回「死ぬ気でやれ!」との気合入れの後演奏したテイクがようやく上手くいって、それがアルバムのそれである、という証言/伝説があるので、それとA/B面別音源説が整合しないというあたりでまだ謎のままだったり……。

 余談その2。これまたやはり先に書いているように、本作、LP(及びCharly盤系統のCD)とSeventh盤ではミックスが違い、かなり音の質感が異なっています。Seventh盤の方がLP版では聞こえなかった細かいパーカッション類の音が聞こえるようになっていたりと全体にクリアで音の広がりがあり、バランスもいい気はするのですが、その分LP版が見せていたごりごりにぶち飛ぶような強烈な迫力が若干減じてしまっているきらいはあるので、Seventh盤でしか聴いていない方はできれば一回はLP版のミックスでも聴いてみてほしいですね。
 
 余談その3。この時期のライブ音源については、もう少し後の9月24日のTheatre du Tairでの公演が後に公式ブートレッグ的なAKTのシリーズでリリースされていて、まあこちらは宅直落としの2トラック録音であるということから音質的な限界はあるものの、より熟成されたバンドによる全部がライブ録音という形で収録されている分、より収まりはよく、また本作での形からより進化した(とはいえ「Retrospectiw III」以降形まで至っていない)”Hhai”や、ライブならではのジャム性を盛り込んで、Federowの珍しいソロも聴ける”Kobaia”、さらにはこちらでは頭からカットなしに全編収録された”MDK~Mekanik Zain”を本作以上のごりごりとした勢いと迫力で聴けるので、ここから先に興味があってなお未聴の方は(音質はそれなりですが)こちらもまた聴いてみて欲しくもあったり。

LED ZEPPELIN : II


 それはまあロック史上の大物中の大物であるし、世代的に英国ハード・ロックは中高生男子の常識という育ちでもあるから”ハード・ロックの王者”たるツェッペリンもまあ大体一渡りは聴いてはいたものの、ハード・ロックは基本的にパープル派(というか「Made in Japan」を超越的例外とすると、どちらかというと3頭政治時代のレインボーか)であったので、あまりいい聞き手ではなかったのでした。さて、その彼らの”ハード・ロックの王者”たるポジションを決定づけたのが本セカンドです。
 
 そうした”ハード・ロックの王者”にのし上がるにあたって、ペイジの古くからの友人であり、ツェッペリン結成前からペイジが散々ライブに足を運んでいたジェフ・ベックがロッド・スチュアートと組んでいた第一期ジェフ・ベック・グループにおけるそれを下敷きにしたようなシャウトするヴォーカルと歪んだギターとの絡みを中心とした粗暴なブルース・ロック・サウンドにかなり特化した感じとなっており、ファーストで聴けたサイケ、フォーク、ブルースが特異なグルーヴ感覚と共に混然一体となった多様でありながらも継ぎはぎにならない、ロックが拡大しつつある時期に英国においてその先頭を走る存在としての可能性からは一歩後退しているような気もしなくも?まあ、本人たちとしてはバンド初期の創造性があふれていた中、持ち札の中でもラウドでエレクトリックな面を本作に、アコースティックな面(これも英国トラッドとロックの複合サウンドを志向するペイジと、わりとストレートに西海岸フラワー・ムーヴメント賛歌に行きがちなプラントの間では指向性が違うので、サードも一言でアコースティック志向といいつつ一面的ではないとは思いますが)を本作に振り分けてみたくらいの感じだったりしたりするのでしょうか?そんな中でジョン・ボーナムのラウドでありつつ実にファンキーなグルーヴ感は唯一無比ではあるし、またバンド全体を見渡して作品として統率するペイジの力量もあって、やはり第一期ジェフ・ベック・グループとツェッペリンにおいては明瞭な差があることも間違いないので、本作の“ハード・ロックの王者”としての”名盤“の地位は微塵も揺らぐことはないと思いますが、まあそうした粗暴かつ野蛮なサウンドについていえば、やはりライブでこそ盛り上がるので、この時期のツェッペリンに関しては(非合法な)ライブ音源を聴けば個人的には満足だったりはします。

 そういう観点から聴くとスタジオ盤たる本作、ツェッペリン基準では粗暴なブルース・ロックに特化しつつも所々に挟み込まれるアコースティックな瑞々しさやサイケなギミックなど、ここから様式化されていったHR/HMの方向では切り落とされて行ってしまった可能性が強く残り、まだまだロックが様式に固まりきらない時代の魅力を感じることは容易でもありますが、個人的にはそういう方向性がより強くでたファースト、あるいはそれら多様性をさらに発展させていった「Houses of the Holy」、「Physical Graffiti」の方が好きではありますね。

 まあ、そうしたハード・ロック的粗暴さの象徴が、脳天から突き抜けるようなプラントの野放図なまでのスクリームと思いますが、当然ながらそんな歌い方は喉に悪いわけで、いつまでも維持出来るものではなかったということで、プラントのこのハイトーンは72年半ばをもって大幅に減衰、以後はスタジオ録音はまだしも、ライブだとその時の調子を見つつ、好調時でも全盛時に戻ることはなかったことを思うと、本当に本作の野放図なまでの粗暴さはらとロックの両方が若さ溢れる時代の、ごくごく短い期間にしか出せない音であったのだし、それこそが”ハード・ロック”の核であったのではないかとは思います。と、々書いてきましたが、”ハード・ロックの王者”たる彼らを規定した作品でありつつ、個人的な好みの曲は、そのハード・ロックらしからぬ場面が多々ある”Thank You”であるというあたりにもわたしのハード・ロック適性のなさがでているのかなとは。

EMERSON, LAKE & PALMER : Brain Salad Surgery


 以前のU.K.の文章でも書いたように、わたしがいわゆるプログレッシヴ・ロックというサブジャンルを、そういうジャンルがあるとは全く意識しない状態で聴くようになったのは’79年~’80年の中学生時分の話であり、その段階でEL&Pは解散していた、よって普通のロックとしての新譜として聴く機会がなかった、ということでその名前は聞いたことはあったものの、わたしがEL&Pの音に触れたのは高校に入学してから図書館にあったロック・ガイドブックの類を通して「この、これまで好きで聴いてきたピンク・フロイドやイエスはプログレッシヴ・ロックなるサブジャンルに含まれているようなのだが、ではこのジャンルにはほかにどういうバンド/作品があるのだろうか?」と探るようになってからのことなのでした。で、その文脈からEL&Pに入るとなると日本ロック受容史ではより重要扱いされがちな「Pictures at Exhibition」、「Tarkus」の方が先になるわけですね。まあロックとクラシックの融合!的なキャッチに合わせやすいとか、キーボード・トリオ形式によるプログレッシヴ・ロックの確立、といった歴史的重要性からそうなるのはわかるのですが、とはいえ”プログレ”的観点でのELPの頂点作は間違いなくここでしょうね。

 まあ、ELPというのは歌メロが作れないエマーソンとプログレッシヴな方向性にはそこまで興味がないレイクのお互いが、お互いの持たない部分を補完しつつもどうにも相容れない(本作以前の代表的大作”Tarkus”はおよそ歌ものにはし難いようなエマーソンのモチーフが先行しつつ、そこに無理やりレイクの歌を挿入することでかろうじてメインストリームのロックにとどめた感はあるし、同曲制作時の対立でセカンドにして早くも解散寸前まで行ったという事実からすると、この二人、音楽的にはほぼ水と油ですらあったように)、の繰り返しであったような中、本作のハイライトたる大作、「Karn Evil N9」はその二人の持ち味が初めて融合した大作である感はします。その辺りはオーバーダビングを多用しすぎてまともにライブで演奏できる曲がほとんどなくなってしまった前作「Trilogy」への反省から、本作はライブ演奏を意識して作ろうと制作前にロンドンの古い劇場を買い取り、当時設立したマンティコア・レーベルの社屋とすると共に、ステージを作ってそこで演奏しながら作曲/リハーサル作業を進めていった、という制作法のおかげかもしれませんが、そこいらはエマーソンもレイクも鬼籍に入ってしまったいま、確認しようもなさそうだなと。

 ということで本作ですが、冒頭のコンパクトな中に勇壮な大仰さを思いっきり表現した“Jerusalem”から、アルゼンチンの同時代作曲家アルベルト・ヒナステラ(アストル・ピアソラの作曲家としての師匠の一人だったりも)の協奏曲の一部を簡略化することでよりロック的なダイナミズムをたたき出すことに成功した”Toccata”(なお、本作録音途中に入った欧州ツアーでは同曲はカール・パーマーのソロにつながる形で演奏されていたこともあり、スタジオテイクでもパーマーの電子打楽器を含めたメロディアスな打楽器アプローチの貢献度が高い)への流れは問答無用で盛り上がるし格好いいなと。とかく”プログレ”では軽視されがちなこうした直接的で馬鹿馬鹿しいまでの盛り上がりと格好よさを最も体現していたのはELPだったし、だからこそ‘70年代初期のリアルタイム時には最大級のスターとして君臨していた(が、誹謗中傷もまた最も多く受けた)というのはあるように思います。続いてはELPのアルバムで毎度入ってくるグレッグ・レイクのバラード曲とお遊び的ホンキートンク風曲。個人的にはこの路線の曲はまじでどうでもいいので、どのアルバムでもその手のやつは飛ばしがちなのだが、まあ大仰な出だしから、クライマックスとなる大作の間の箸休めとしてはいい具合に機能しているようには思います。まあグレッグ・レイクのバラードものはソロ作を聴いても本来の彼の志向はそちらだったのだろうし、基本的にはエマーソンの志向で固められがちなEL&Pのアルバムにおけるプロデューサー兼メンバーであるレイクの主張なのだろうなと思いますが、毎度アルバムに一曲づつ入れるおふざけナンバーの意図はなんだったんでしょうね。やはり彼ら自身、自分たちの音楽が多分にやりすぎ傾向が強く、その緩和的におふざけ曲を入れておく必要があると感じていたとかなのだろうか。

 ともあれLPだとA面の終盤にあたるここから先が本番、本作の焦点となる大作”Karn Evil N9”となります、LPだとA面の後半からB面すべてを費やす3部(第一印象がくっきり2部に分かれているので実質4部か)構成、トータルでほぼ30分(イタリアやスペインのバンドならそれでアルバム一枚終わりそうな長さ!)の大作。なお、この曲も”Toccata”同様に本作録音最中の73年4~5月の欧州ツアーにて第一印象のみ(その段階で出来ていたのがこれだけだったとのこと)が演奏されていました。その段階ではまだ出だしのキーボードの対位法的部分も出来ていないのか、スタジオ盤比で大分短め、かつフレーズが違ったり、中間のパーマーのソロ・パートもあっさりと短めだったりなどなどの相当に未完成状態の演奏であるのが面白いのですが、このツアーの音源、正規盤としてはCD/LP/7” Single/Blu-Rayと様々なフォーマット入り乱れた22枚組ボックスのみの収録で、しかもその中の3枚組LPとしてという嫌がらせにも程があるフォーマットでしかリリースされていないのでまあまあ厄介ではあります(が、ブート、および権利不明瞭ながらサブスクにはありますのでどうしても、という方はそちらで……)。

 スタジオ盤の完成テイクではイントロから当時エマーソンが注力していたという対位法を巧妙に用いたキーボード・フレーズが長めに披露された後、抑圧する権力に対する戦いが英雄から宣言されて、そこから抑圧者と英雄的反抗者と思しき二つの音楽的テーマが対比され繰り返される第一部前半から、なぜか途中から”Welcome Back My Friends”と陽気なカーニヴァル(Karn Evil =Carnivalですね。このタイトルは本曲の作詞に協力したピート・シンフィールドが出来上がった曲の一部を聴いて、“カーニヴァルで流れていそうな曲だな”と思ったことに由来するそうですが)への呼び込みが始まります。
実にEL&Pらしい景気のいい盛り上がりをみせつつ、最終的にIt's Rock'n'rollとの宣言に落ち着くあたりはどういうことなのかがよくわからなかったりします。これは愚かな大衆を洗脳する娯楽としてのスペクタクル=ロックという意味なんでしょうか?まあ、ELPの歌詞についてそこまで真面目に考えても仕方がない気もしますけれど。
 この場面でのエマーソンのフレージングですが、機材の進歩ゆえか、従来作よりも多彩な音色にて、ジャズのビッグ・バンドなどが見せるファンキーに煽るようなコール&レスポンス風のノリを一人で聴かせる風合いがあって、前作冒頭の”Hoedown”で見せたようなアメリカ性を大胆に取り込んだ感がありますね。このパートの歌詞に”Dixieland, Dixieland”ともありますし、そうしたビッグ・バンド・サウンドは明瞭に意識されていたものであることは間違いないと思います。まあ、エマーソンはNICE時代の”America”やピアノ・ソロにてホンキートンク調のフレーズを取り込んだりと、アメリカ音楽への傾倒は初期からあったとはいえ、EL&Pにおいては“Hoedown”にしろややお遊び的な使い方であったので、バンドのメインとなるシリアスな大曲にそういう影響を出してきたのは新鮮というか。この路線は後の「Works」での”Fanfare For the Common Man”にも引き継がれていて、初期のEL&Pにおけるバルトークやヤナーチェク、ムソルグスキーなど東欧近代クラシックの換骨奪胎(パクりともいう)から、アメリカのクラシック/ジャズへとエマーソンの興味が変化していたのかなと感じたりしますが、これは妄想が過ぎるか。

 続いて第2部はアコースティック・ピアノを全面に出したインストによる短めの楽章。インストなので曲のテーマとどう関わるのかは分りませんが、ここでは先のカーニバル場面の北米性から、東欧クラシックとヒナステラを結ぶようなフレージングが従来のEL&Pを感じさせるとともに、中間部では変調させたピアノでスティール・パン風の音色とフレーズを叩き出すなど、エマーソンのピアノ・ソロに見られる新世界音楽志向についてなんか考えたくなったりも。ともあれ、エレクトリックに盛り上がる前後のパートの真ん中に対比的に置かれたアコースティック編成曲でも緊迫感あるロックを感じさせるあたりが見事で、今のわたし個人的にはこの組曲の中でも一番面白みを感じる場面だったりします。

 その短めの第2部が終わるとすぐに第一部で予感させたファンファーレ的なテーマから第3部が始まり、ここでは第一印象前半を引き継ぎ、抑圧的な支配体制とそれに抵抗する人間の戦いが描かれているようです。途中スペイシーなシンセがびょーんと入るあたり、戦いの舞台は宇宙に飛んでいそう(妄想)? この第3部における機械文明と人間の対決(このテーマはタルカスのアルマジロ戦車と、半人半獣でありながら生身の存在であるマンティコアの戦いの延長?最後、一旦は生身/人間側に凱歌を上げさせるものの、その後に怪物/コンピュータの逆襲/征服を暗示させるパートで終わるのも通じる気はしますし)を様々なキーボード類の多彩な音色を駆使して複数のモチーフを対比させつつ演出するエマーソンの表現力と、それに彩りを加えるパーマーの打楽器群の表現力はELP史上でも一つの頂点であるように思いますね。まあ、ここでこれだけやりつくしてしまったからか、バンドとしてのアルバム作成ができなくなってしまっての「Works」以降であるのかなと思うと少しさびしさを感じたりはしますが。

 ともあれ、EL&Pの究極点にて彼らの、そしてある種のプログレッシヴ・ロックの到達点にて先がない袋小路的な作品として忘れがたい一作ではあります。

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