シン・ミニョンに便乗勝手にクロスレビューその4、イエス:「リレイヤー」、ジェントル・ジャイアント「プレイング・ザ・フール」


 ということで第4回です。ブリティッシュ大物二点です。毎度お酒を入れながら聴き返しつつ思いついたことを並べた放談のりで流していますが、やはりブリティッシュ大物は付き合いが長い&情報も多いということで、字数多くなって枚数稼げないですね。次回からは単発ユーロものが混ざってきそうなのでもう少しコンパクトに可読性ましに行けるのでしょうか。ともあれ毎度のマニアの思いつきと与太かつ今回は特に余談多いですが、楽しんでいただければ幸いです!


YES : Relayer

 前のどこかの項目で書いた気がしますが、イエスで最初に聴いた作品は「Drama」でその段階ではプログレとかいう概念もなく、普通に当時とっかかりつつあったロックというジャンルの有名バンドの新作という扱いでした。
 より細かく書くと、当時諸事情あって寮生活をしていて、PCなどもない当時、室内娯楽としては読書と双璧だった音楽に関してはクラス内で手元のテープを録音しあって融通をしあっていたのですが、たまたま当時人気を確立しつつあったThe POLICEのセカンドのダビングをお願いしたところ、それが収録されていた90分テープの裏面に入っていた「Drama」が抱き合わせで付いてきたのを聴いて、そちらも気に入ってどういうバンドなんだと興味が沸き、冬休みに帰宅した際に近所のレコード屋でたまたま手に取った作品が「Close to the Edge」だったのがわたしの音楽嗜好に対して決定的な影響を及ぼし、それからまあ色々紆余曲折あって今に至っているというから偶然は怖いなと。とまあ完全に余計な私事はさておき、その「Close to the Edge」にすっかりやられて同じ冬休みの間に乏しい小遣いでもって買いに走ったイエスの作品のうちの一つがこの「Relayer」であったので、ずいぶんと長い付き合いになりますね。

 さて、本作「Relayer」は「Tales of the Topographic Oceans」制作過程で当初60分程度とLPにして1枚分にするには長すぎ、2枚分には足りないという半端な分量であった素材を結局引き延ばして二枚組LPにしたという決断と、またその音楽的方向性に反発を隠さなかったキーボード奏者のリック・ウェイクマンが(自身のソロ活動の成功もあってか)アルバム・プロモーションのツアー途中に脱退を決意、そのまま意思を変えずに脱退した後、その代役として元NICEのキース・エマーソン以外の二人とREFUGEEにて活動していたスイス人、パトリック・モラーツを迎えて制作されているわけですが、ウェイクマンの後任がモラーツに決まるまでにはいろいろあったようで、とりあえずキーボード未定のまま、残った4人で新作に向けてのアイディア出しをやりつつも、若き日のエディ・ジョブソンを含め10人程度のキーボード奏者をオーディションし、その中で元々ジョン・アンダーソンのお気に入りでもあった元APHRODITE‘S CHILDのギリシャ人ヴァンゲリス・パパサナシュー(この段階ではパリ在住。ソロ作はフランス映画のサントラ系が主で国際的にはまだまだ無名であったはず)が一旦は加入が決まりかけて、彼の膨大な機材をロンドンに持ち込んでリハーサルを重ねるも、結局は演奏スタイル的にイエス、ことにウェイクマンのパートを再現するには向かない、またヴァンゲリス自身がツアーに乗り気ではない上に、自身の音楽に対する強固な音楽的ヴィジョンを抱きすぎていてバンドの一員には向かない、そして最終的には英国のミュージシャン組合からビザが認められなかったなどの事情により実現しなかった、というのは有名な話ではありますが、本作のアグレッシヴでジャズ・ロック/フュージョン的方面に踏み込んだ作風からするとヴァンゲリスよりはモラーツの方が遥かに適任ではあるのは間違いないでしょうし、実際に本作の音楽性を顧みると、モラーツが持ち込んだアイディアも多分にあるでしょうから、そこのあたりは結果オーライであったなとは思います。さらに言えば本作の志向的にはモラーツはウェイクマンよりも適任でもあるでしょうし、実際に本作の発表直後に聴いたウェイクマンは「私が全然やりたいとは思えなさそうな音楽で良かったよ。だって音楽的方向性が合わなくて自分が抜けたバンドに自分が参加したいような音楽をやられたらそれは悔しいからね」などともって回った悪口コメントを発したという逸話もあったりと。
 まあ先に書きましたように、本作のアイディア自体はモラーツ加入以前から進められていた、というか、ジョン・アンダーソンが『戦争と平和』をモチーフとした漠然としたアイディアを元に、まずはスティーヴ・ハウと共にベーシックなアイディア出しを重ねて、ある程度出来上がった段階でバンド(キーボード未定状態の4人?)に提示してそれぞれのパートを埋めていったとされており、その過程としては前作「Tales~」と同様ですね。こうしたアイディアの提示と煮詰め方は、そもそもイエスの大作志向のはじめとなった「Close to the Edge」以来のそれではあるのですが、「Close to the Edge」においてはスタジオでの録音作業に入った段階になってなお、極端な話、一小節ごとに全員の合意を取りながらすすめるというカオスかつ非効率な制作方法を取っていた(この辺りの非効率性がオリジナル・ドラマーであるビル・ブルフォードには耐えられなかったのが彼の脱退の一因となったとか)のが、よりアンダーソン/ハウ組に明確な主導権がある作り方であったとのことで、その辺りが全員が一丸となった異様なまでのエネルギー感が全編にみなぎる「Close to the Edge」と、同様に大曲志向ではありつつも、そこまで一丸となった集中感あるパートで締めず、それぞれのメインを担当するメンバーが移り変わってモチーフとそれに沿ったソロを展開させていくような構成の「Tales~」及び「Relayer」との間の違いにつながっているようにも思います。といいつつ「Tales~」と「Relayer」の間にも聴けばわかるように大きな違いはあって、これはまずはジョン・アンダーソンが制作当初から歌詞がある部分が長かった「Tales~」と異なった、よりジャズ・ロック的なインスト志向でカオティックかつ実験性高い音楽性を目指していたらしいこと、これはLPのA面全てを占める大作”Gates of Delirium”の中間部以降の闘争を表現したような展開における創作打楽器(これはドラマー、アラン・ホワイトだけではなくアンダーソンも担当しているとのこと)の多用やその戦闘/闘争的歌詞に呼応した攻撃性の高さなどに明瞭に出ているように思いますし、B面頭の”Soundchaser”では先にハウが書いてあった中間部のギター・モチーフに合わせてモラーツが作曲したパート(このパートの作曲が彼のオーディションの過程の一つだったそうな)などで聴かせる、ラテン/ブラジル色まで取り込んだフュージョン感覚は、モラーツがいたこの編成でしか作れなかった新生面であると思います。まあ、イエスにおけるジャズ的な感覚自体は初代ドラマー、ビル・ブルフォード(やはりブルーフォードという表記にはなじめない)とギタリスト、ピーター・バンクス、更にはそのバンクスの後任となり、その後作曲面での中心的メンバーとなったスティーヴ・ハウの奏法に大きな影響を与えているというのはよく知られており、これまでにも”Close to the Edge”の出だしのインストで走る部分はその直前のツアーで一緒に回ったMAHAVISHNU ORCHESTRAに触発されたものであったり、「Tales~」でも第3面の“The Ancient”の前半では本作に並ぶくらいにアグレッシヴなジャズ・ロック的展開を聴かせてはいたりもしましたが、とはいえその路線をより拡大するにあたってモラーツの強くジャズ・ロック/フュージョンにまで踏み込んだセンスが貢献度大であったのは確かであろうと。とはいえ、ラストを飾る”To Be Over”はアンダーソンの素朴な歌を軸にした”And You and I”路線を目指した曲でありつつ、基本モチーフの魅力が不足してその長さを支えられない半端なものになってしまっているようには思いますが。もう一つ言えば本作の曲、というか”Gates of Delirium”と”Soundchaser”はその攻撃性やジャズ・ロック性からか、スタジオ・テイクよりはライヴ演奏の方がはるかに映えるというのはアルバムとしての本作を聴く上で若干のハンデになってしまっている気はします。

 余談になりますが、本作を従えたツアーをにおけるイエスはその人気の絶頂期にあったということもあり、ラジオやTVでのライブの放送もいくつかなされており、旧曲も含めたライブ全編を収録した放送用音源がツアー初期の74年末(これは日本でも何度か放送されたので年寄りにはおなじみ)と、すっかりこなれ切った76年半ば(こちらは正確には同年にイエスのメンバーがそれぞれにリリースしたソロ・アルバムのプロモートを兼ねたツアーであり、ツアー初期には各々のソロ曲をフィーチャーしたセットを組みつつも、やはりソロアルバム曲は客ウケが悪いと早々に外されて「Relayer」から”To Be Over”を外してより旧曲を充実さえたセットに変更した後の収録なのですが)の2音源が未発ライブものとしては最上級クラスの音質で残されているので、興味ある方はそれらを追ってみる価値はあるかと思います。特に76年(6月17日、ニュージャージー、ルーズベルト・スタジアム公演)の音源はイエスのライブ音源史上でも屈指の勢いと迫力ある演奏でありますので。

 余談その2。LPのA面を占める大作、“Gates of Delirium”ですが、闘争が終わった後の平和を示すとされる最終パート”Soon”はアルバム・リリース段階でシングル曲として用いられ、後のライブでもこの部分だけ演奏されることが度々あるなど、実質的に独立した違う曲として扱われることが多いですが、このパートはモラーツ参加前にヴァンゲリスを迎えてリハーサルをやっていた時期にヴァンゲリスが書いたのがノークレジットで使われている、という噂があります。これに関しては裏付けとなる証拠は知る限り全く存在しない完全に噂レベルの話でしかないのですが、本作より後10数年に及ぶジョン・アンダーソンとヴァンゲリスの数多い共演作の作風からすると、そうである可能性はかなりあるような気はしますね。とはいえ誰かからそれを裏付ける証言がでない限りは憶測の域は出ない話でありますが。

 余談その3。本作の2003年版再発CDにはボーナスとして完成前の通しでの予行練習テイクが収録されていますが、こちらは“Soon”の後にエンディングとして中盤の闘争場面からの激しいフレーズが再度現れる構成になっているのが面白かったり。この構成だと闘争から平和に、というコンセプトからして別ものになるだろうし、その辺りの構想が制作過程の中でどういう具合に移り変わっていったのかにも微妙に興味があったりもするのだけれども、これも謎のままになりそうな?また、この練習テイクだとまだ各人のパートがまだ出来上がっていなかったり、オーバーダブが成されていなかったりするのだけれども、そんな中、アンダーソンの歌いまわしも(まあ本気テイクではないというのもあるのでしょうけれど)完成テイクとはかなり違っていて、部分的には結構ソウルっぽいニュアンスが入った歌い方になっているのが面白かったりします。アンダーソンの唱法のルーツにソウル・ミュージックもあるのは古くから語られてはいて(イエス結成当時はコーラス・ワークにおいてはリズム&ブルース系のコーラス・グループとしてスタートするも、白人ポップスの要素も取り入れたクロスオーバー的なサウンドを志向するようになってから大ヒットを飛ばしていたFIFTH DIMENSIONをヒントにしていたという話もあるし)、そうした方面からの影響が、イエスでのコピーバンド上がり的な後任やDRUID, STARCASTLEのヴォーカリストなどなど、ほかによくいるアンダーソン・タイプのハイトーン系ヴォーカリストにはない力強さを出せている大きな要因であるように思うのですが、YESの作品内での直接的な表現としてはファーストあたりの初期では多分にそうしたニュアンスが出ているものの、その後は影を潜めていたので、この時期でもそうした方向性が(リハーサルとはいえ)残っていたのを知れるのは面白いですね。

GENTLE GIANT : Playing the Fool

 勘違いした誇大妄想者でもない限り、それなり以上に突っ込んだつもりの世界でも分かるもの分からないものがあるのは当たり前で、まあ分からないなりになんかいいと引き込まれてなんとか取っ掛かりを作ろうと繰り返し試してみるものもあれば、なるほどすごいことをやっているのと、それに人々がどう魅力を感じているのかは理屈としてはわかる/ある程度の想像はつき、また聴くたびに感心もするものの、どうにも自分で繰り返して聴きたいという欲求にはかられないバンド/作品というものはあって、まあここでここまで書いている以上予想がつくとは思いますが、わたしにとってはGENTLE GIANTというのはそういうバンドです。
 
 ご存じシャルマン兄弟(元は三兄弟、本作の段階では長兄が家族との暮らしを大事にしたいと抜けてしばらく経っていて二人に)と逸材ケリー・ミネア、わりとロック的なフレージングとバッキング・パートで難度の高いフレージングを決めて音の厚みや幅への貢献度が高い隠れた名ギタリスト、ゲイリー・グリーン、そして「Octopus」で加入すると同時に変則的なリズムを土台にややこしい構造を取りたがるバンドのサウンドを見事にビートに乗せたロック的なノリを醸し出すのに成功させて、妥協抜きでの聴きやすさの確立と商業性の加味に成功して黄金期の土台となったドラマー、ジョン・ウェザースと誰一人欠かせない役割を果たす才人揃いの編成にて、中世音楽から現代音楽に至る西洋古典音楽の豊富なリソースをロックのノリにぶち込んで過剰なまでのアレンジを施しつつ、なおシリアスぶらずにエンタメとして成立させている離れ業っぷりはいわゆるプログレの範疇であるにしても類を見ない独自性と完成度があり、またその特徴をパターンとしてもとらえやすいのか、イタリアン・ロックの2巨頭、PFMとバンコ(ついでにACQUA FRAGILEも)はもとより、’90年代以降にECHOLYNやSPOCK’S BEARDなどポストDT的に一旦はアメリカの産業に拾われた(が、そこに乗り切れはしなかった)バンドたちにも影響は顕著(とりあえずカナダのET CETERAとドイツのEPIDERMISはマイナー感強いので無視します。まあフレンチ・カナダのシーンはMANEIGE、OPUS 5などもGENTLE GIANTの影があるようには思いますが。あ、それから我が国の美狂乱にもごく一部ながら露骨に影響を与えていましたね)であるなど、影の大物であることはまあ間違いないと。もっともその大物ぶりが影の、で終わっていることも確かではあり、実際本国イギリスではその約10年のキャリアで一作たりともチャート・インしたことはない(とはいえ国営放送BBCには繰り返し出演、それも1時間番組まるごと使ってもらえたりなどもあったりと一定評価はあったはず)のですが、その一方では、早い段階から欧州では一定人気を得て(それゆえのイタリアの大物へ影響を与えられた?)、また本作の前々作「Free Hand」ではアメリカでもアルバム・チャート最高47位とプチ・ブレイク。全米50位以内到達というのは結構難度が高い数字で、これはおおむね同時期比だとPINK FLOYD, YES, EL&P, JETHRO TULL, MOODY BLUESあたりには全然及ばないもののブレイク前のRUSH「2112」やKANSAS「Masque」が至らず(まあこの2バンドはほんの数年後にはトップ・バンドにのし上がる瀬戸際にあったわけですが)、「Lizard」から「Red」に至るまでのKING CRIMSONでも届いていなく、大体同時期のRENAISSANCEやピーター・ゲイブリエル在籍時のGENESISの最高位~「The Lamb Lies Down on Broawdway」が45位~と互角、日本だとなんとなく似たような中堅プログレッシヴ・バンド扱いのCURVED AIR、V.d.G.G.、CAMELあたりではかすりもしていない数字なので、本人たち的にはそこで成功の一歩手前の手ごたえを味わいつつ、そこを意識したか若干ながらもファンキーかつリズミックにわかりやすい曲調を持ち込んだ「Interview」が最高位全米143位とこけてしまった後の欧州ツアーからの録音だったりします。
 ということで、いわゆるライブ盤の後はバンドの音が変わる、の典型とされる本作ですが、その背景にはそんな直前各作品のセールス事情と、それを受けて次作「The Missing Piece」から時代を意識した上でアメリカ市場でのブレイクを目指しての音楽性の転換を試みた試行錯誤の3作品(この辺の市場と商業性を計算したバンド運営の視点はバンド解散後にミュージシャンをやめて制作に回りATCOに移籍して代表を務め、さらにはRoadrunnerの代表に就任するという音楽業界の大物として地位を確立するキャリアの中でBON JOVI、CINDERLLA、DREAM THEATRE、PANTERA、SLIPKNOTなどと契約したデレク・シャルマンの風読みと計算のなせる業でありそうですが)、しかしそのいずれもが失敗、また従来のファンからも失望されて人気の急降下につながって解散に至る、という意識的な転換期のちょうど境にあたるアルバムであるので、まあ音が変わるのも当たり前、かつプログレッシヴ・ロック・バンドとしての最後の、最も煮詰まった状態での演奏を聴かせてくれるのが本作なわけです。

 ということもあってかメドレーの一部に断片的登場も含めれば、それまでの全作品から楽曲を収録、スタジオ盤の緻密さを逃すことなく、ライブ用にメドレー化や新パート追加作曲、さらに全体的スタジオ盤よりテンポを上げてライブならではの派手でロックなノリをより強く加えたうえ、GENTLE GIANT名物の複数メンバーによる様々な楽器のパズル的持ち替えから、全員リコーダー、全員ギター、全員打楽器といったライブ映えする大道芸的パフォーマンス(まあ、この辺りはパフォーマンス優先の演出も多分にあるので、映像抜きで音だけで聴くとそこまで必然性ある?という展開もあったりはするのですが)までかまして全く隙がない上に、驚きや笑いまで持ち込むというロック・ライブ盤史上でも屈指といえるくらいの密度を誇る、いわゆる”名盤”ってやつですね。
 これまたよく言われる話ですが、これ聴いてだめならGENTLE GIANTは向いていないね、という作品ではあります。と、いうわけで私自身も高校生当時、これまでも何度か書いているように英国大メジャーバンドと一部ユーロ系に足を突っ込んだその次にまあ雑誌で読んだりレコード屋の店頭コメントを読んだりでこの“プログレ”なるジャンルとやらになにがあるのかと探る過程で、普通に中古盤でも手に入れやすかった本作に手を出したわけであります。で、まあ冒頭にも書いたようにそういう意味ではわたしはどうもGENTLE GIANTは向いていなかったようで、いや全然好きなタイプの音だし、文句なしにすごいし、普通に感心もするし楽しめていないこともないのですが、どこか決定的にはまれないまま延々と現在にまで至るわけですね。いや作品は一渡り所有して聴いて、膨大にある未発表音源の類もそこまで真面目には付き合っていないものの、ライブ音源で音質が良いものを4~5枚くらいは合わせて聴いて、まあどれも普通に感心はするわけですが、自分の好きなジャンルの中での独自性や影響元的な意味で押さえる価値はあったし、楽しめなくもないのですが、まあやはり自分にとってそこまで重要な音楽ではないのだなというのが結論で、こういうのが相性というやつなのだろうなと。

 どの辺りが相性よろしくないか改めて考えてみると、まずはリード・ヴォーカルの声質がどうにも苦手(これはどうしようもない)、かつその性質と歌メロが合わさるとどうにも決定的にダサく感じてしまうあたりでしょうかね。世の中ダサ格好いいものはあるということは十二分に理解していて、そういう感じで好きなバンドも十分にあるのですが、個人的にはどうもそこにも置けないのは、もう一つ言えば実に多様な要素を起用かつパズルのように組み込にあたってのシニカルな冷静にどうしても距離を感じるあたりで、その辺りやはりわたしの音楽の聴き方というのはどこか情緒先行であるのだなと毎度認識させてくれるバンド/作品ではあります。そういう意味では個人的には彼らからの影響は明瞭ではありつつも、より耽溺型の情やバカっぽい派手派手さを持ち込んだバンコやPFMのより好きであるなと。などと文句をつけつつ、さすがにここまで長年付き合ってくると相応になじんで来て、とはいえそれでも、あ、こんなことやっていたんだ!との発見があるのがGENTLE GIANTというバンドの恐ろしさであるのだろうし、これはやっぱりEPIDERMISなんか聴いている場合ではねーな、という結論に至ったりするので、xxxの影響下にあるバンドでもまあ千差万別、雲泥の差が出るのだなとも。と、なぜかEPIDERMISに当たりが強いまま終わりが近い中、さらなる余談としてついでにいうとET CETERAは結構好きですね。先に話に出したバンドだとOPUS 5とMANEIGEは影響は顕著でありつつGENTLE GIANT要素以外の部分も多々あるのでそこの部分の組み合わせも含めて普通に好きなバンドですし、そういえばMANEIGEはGENTLE GIANTが結成当初に姿勢として影響を強く受けたとされる、フランク・ザッパからの影響も多分に感じさせるバンドでもあるから、まあ色々お互いに意識していなさそうなあたりでつながっているのだな。と本当に脱線に脱線を重ねたところで終わります!そういやブラジルのTERRENO BARDINOなんてのも(だからもうええっちゅうねん!)


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