どこだれ㉓ 新潟の印象って何ですか?
「新潟の印象って何ですか?」
1か月半に及ぶ新潟での滞在制作の最中に、何度こう聞かれたかわからない。その度に、言葉につまる自分がいた。今回は「瞽女」というテーマに集中して制作していて、「新潟」という観点で土地を見ていなかったのでなかなか即答できなかったのだ。「えっと…鳥が多いなと思いました」と見当違いな返しをしてしまったこともあった(けれども実際に鳥は多いと思う。公園でおにぎりやパンを食べていると必ず鳥がおこぼれをもらいに来るので…)。
同時期に滞在していた盲目の美術鑑賞者、写真家の白鳥さんに「こういう時なんて答えてますか?」と聞くと、「多分相手の欲しい答えは決まってるんだよね」と言う。「例えば、ご飯がおいしいですねとか、お酒がおいしいですねとか」。そう言われてやっと「ああ、そういうことか…」と腑に落ちた。そういうことなら考えずとも言えたのに!産直で買ったお米にトウモロコシ、枝豆など何でも驚くほどおいしく、「移住するのは新潟もありだな…!」と真剣に考えるほどだった。味わう度に、食べ物を育む豊かな土地なのだなとしみじみ感じたものだ。
ただ、それだとあまりに普通なのではないか。そう思ってこの滞在期間を振り返ってみると、「瞽女」の次に多く触れたテーマは「戦争」だった。
滞在2日目に行った新潟市歴史博物館みなとぴあでは、新潟市の成り立ちや川と人間の戦いの歴史に大部分の展示を割いている中、印象に残ったのは「緊急疎開を命ずる新潟県布告」の展示だった。広島・長崎の原子爆弾投下のあと、次に原爆を投下されるのは新潟だという情報があり、新潟県知事が住民に対して「〇〇(住所)に疎開するように」と命じられた文章だ。それを見て、これまで「なんだか新潟は古い建物がたくさん残っているなあ」と感じていた理由がわかった。新潟に古い町並みが残っているのは、空襲がなかったからではなく、原爆を落とされなかったからだったのだ。
原爆の影はその後訪れた長岡にもあった。長岡は8月1日の空襲が特に酷かったということもあり、その記憶を残す意志が強いのだなと感じることが多々あった。駅からも近い長岡戦災資料館は、こぢんまりとしているがかなりしっかりと解説がされている施設で、当時の資料もたくさん展示されている。空襲前に数回に分けて米軍が空から撒いた「伝単(ビラ)」の現物もあった。そこには「あなたは自分や親兄弟友達の命を助けようとは思いませんか。助けたければこのビラをよく読んでください」から始まる空襲予告の文章があり、この後に起こったことを考えると複雑な気持ちになった。他にも、人が殺到し過ぎて多くの死者を出してしまった防空壕の模型や、戦地にいる兄に宛てて妹が書いた「大きくなったら立派な母になって子をたくさん生んで兄さんに続かせます」という手紙など、簡単には見流すことができない資料が並ぶ。時間帯によっては語り部の方もいらっしゃり、沢山お話を聞かせていただき大変勉強になった。
しかし、最終的に印象に残ったのは、こうした展示ではなかった。資料館のパンフレットに記載された「長岡空襲史跡めぐり」をした時のことだ。この日まで全く知らなかったのだが、長岡には7月20日に「模擬原子爆弾」として、長崎に投下されたのと同型、同量の爆弾が投下され、4人が即死、5人が怪我を負い、全壊2戸、29戸の家全てに大きな損傷をもたらしたという。その投下地点に碑があるということで、見に行ってみることにした。よく晴れた日で、何もない道を歩いていると汗が噴き出して来た。しばらく歩いても全くそれらしいものは見えず心が折れかけたが、川沿いに歩いて行くと、真新しい碑がぽつんと立っているのが見えた。
碑の文章を読み、顔を上げて、しばし立ち尽くしてしまった。
まわりの景色が、あまりにものどかだったのだ。
周りは田んぼに囲まれていて、田植えを終えたばかりの水面がきらきらと光を反射している。そこにつがいのカラスが来て、水の中からなにかをついばんでいる。すずめがちゅんちゅんと言いながら木々を渡り、川は水量豊かに流れ、その周りには花が咲き、蝶々がふわふわ飛んでいた。
真上を見ると、どこまでも曇りのない、真っ青な空。
まさか、この上から突然爆弾が落ちてきて、一瞬で死んでしまうなんて、だれが思っただろう。ここでは、その日もきっと田んぼ仕事が続けられていただろう。まさかあんなに大量に死者を出す爆弾の投下訓練として、ここにひとつの爆弾が落とされるなんて思いもしなかっただろう。のどかで平和そのものの光景と、足元にある碑の重々しさがまるで同じ世界にあるとは思えず、混乱した。一方で、その時初めてと言ってもいいほどリアルに、戦争が「日常」の延長線上にあると感じたのだった。
美味しい食べ物を育む豊かな土壌を持つ場所。そんな印象のある新潟県だからこそ、その背後にあった戦争の傷跡がより際立つ。食べ物がおいしくて、鳥が美しく鳴き、そして戦争の記憶をきちんと語り継ごうとする人がいる。今は新潟のことを、そんな土地だと思っている。