◎生まれ変わり体験
「ここからは裸足になってお入りください」
そう言われて、私は木で組まれた簡易の小屋の様なところで靴と靴下を脱いだ。
地面に素足をつけると、つめたさが足裏の肉を伝わりぞくりとする。
そのまましばし動かずにいると、地面に体温がなじむのか、足裏が地面に冷やされるのか、丁度いい心地になってくる。
「準備ができた方からこちらへ」
声に導かれて顔を上げる。これから進む道の端に「撮影禁止」と書かれた看板があるのが目に入った。
ここから先は、写真や映像を撮ることは許されない。「人に決して語るべからず」と言われるこの霊山は、今も厳かな空気が漂っている。安易に撮影することや、ぺらぺらと世間話することが許される雰囲気はその場になかった。
お清めを受けた後、参拝者はそろそろと裸足で石の道をあるく。
靴を脱ぐだけで、色々な感覚がひらかれるのが不思議だ。
ぺた、ぺたと足裏が石につくたび、生ぬるい温度が伝わる。そこに、これまでこの石を照らしていた太陽光のあたたかみや、前を歩く人の体温を感じ取る。
しばらく歩いて道が開けた所で顔を上げると、思わず声が漏れるような、驚くべき景色が広がっていた。
そこには、人間よりもはるかに大きい岩がどんと鎮座していた。
その頂点の方からこんこんと、たっぷりの湯が沸き出ていたのである。
もうもうと湯気を立てるお湯は、温泉独特の癖のあるにおいをしていて、身体を芯から温められるということを鼻腔の奥で理解させる。
日々変わらず流れ続けているだろうお湯は、その成分をずいぶん長いこと蓄積させてきたのだろう、岩は全体が赤茶色に染まっていた。
上から下まで嘗め回すように見つめていると、岩を伝って流れ落ちる湯が、ふもとに立つ私の足の方まで流れ出し指指のあいだにまで入り込んだ。
つめたい足がゆっくりと温められる。
その感覚を持って、「ほう~」っと思わず大きな息がでた。
想像してみてほしい。
山を登っていたら眼前に突然、赤茶色の巨大な岩が現れて、しかも全体からもうもうと湯気が絶えず上がっている。
この景色を何の前触れもなく見た昔の人は、きっと腰を抜かすほど驚いたに違いない。
そして、間違いなくこれは何かの力があると思ったのだろう。
霊山として今日まで語り継がれてきた背景が、一瞬で理解できる凄みのある光景だった。
さらに驚くことに、その岩に裸足で登って参拝をするという。
おそるおそる一歩踏み出すと、お湯は思っていたよりもずっと高温で、熱いくらいだ。
そんなに長く一か所に足を止め置いていられないので、すっ、すっとリズミカルに登っていく。温泉の成分によって溶けだした岩の表面はするするとしていて、所々が波のようにまるく、ゆるやかな段になっている。
その感触を足の裏に感じながら、「ああ、これは胎内だ」と思った。
胎内巡り、というものが時折お寺にある。
全く光の入らない真暗な空間を胎内と捉え、壁を頼りに出口まで歩くという仕掛けのことだ。
状況としては全く異なっているものの、私は裸足でその岩の上を歩いているとき、なぜかこうした仕掛けがこの世にひっそりといくつも存在していることの意味を考えた。
そしていつの間にか、記憶のない頃の母親の体内の様子を想像していた。
この脚は、あつい内臓の壁を蹴ったのだろうか。
ぬるぬるとした生暖かい体液に包まれて、いろいろなことを考えたのだろうか。
もしかすると人は、自然を見立てて拝んだり、色々な仕掛けを創り出したりして、何とかこの状況を思い出そうとしているのかも知れない。
全く意図せず、初心に帰るべき時にこうしてばったりと出会ってしまうのかもしれない。
岩の先はある場所に続いていて、そこでまた驚く景色を見た。
しかし、あえてすべてをここに書くことはやめておこうと思う。
何せ、昔からひそかに続く「他言無用の霊山」なのである。
「インスタ映え」や「パワースポット」という言葉では表せない場所が、ここ日本にはまだまだたくさんある。
深い森の中で、遠い山のふもとで、それは、静かにあなたがくるのを待っている。
(もしもしからだ ㉟)