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◎宮古駅から出た列車の行き先


『〇〇のこえ』と題して、日本各地でその土地に住む方にお話を聞き、作品をつくるということを続けている。宮古に来るすこし前には、神奈川県横浜市の左近山団地に滞在し、団地に住む人々の暮らしや人生の話をまとめた『団地のこえ』を制作した。戦後の住宅需要の高まりのなか1968年に建てられたこの巨大団地では、全国各地から横浜に出てきた人々がいまも多く暮らしている。その人生はまさに企業戦士といった様子で、高度経済成長で国が湧きたっていた頃の雰囲気をつよく感じた。

一方宮古で話を聞いていると、同じ時代とは思えないほど、海や山に近い生き方がある。同年代といっても様々な人生があるのだと思った。しかし、双方がまったく無関係だったかというと決してそうではない。事実、それぞれで聞いた話がひょんなことから繋がる不思議な出来事があった。

磯鶏河南老人クラブの方と話していた時に、宮古駅についての話になった。戦争中にはあそこから兵隊を何度も見送ったこと、空襲の時には駅が狙われ被害があったこと、戦後には集団就職の列車が出たこと、震災で被害を受けたこと。あの場所にはさまざまな歴史が刻まれていて、その全てを経験し、生きてきた人が目の前にいることに改めて驚く。その時は何も思わなかったのだが、後日、宮古の図書館で戦後の記述を読んでいた際に、あることに気づいた。
その本には「集団就職の列車が出る時、まだ幼い少女や青年たちにこの先どんな人生が待っているのだろうとかわいそうな気持ちになった」というような表現があった。集団就職というのは、中学・高校を卒業した子どもたちが、就職先を求めて都会へ出る雇用運動のひとつである。1950年代半ば~1980年代に実施され、岩手県内からも「金の卵」と呼ばれた若者たちが首都圏に向け列車に乗り込んだ。そうか、中学卒業と言えばまだあどけないものなあ…と思っていたら、ぱっとある人の顔が浮かんだ。それは、先の団地で出会ったひとりの男性だった。団地内を歩いていたら、午前中から公園でひとりお酒をたしなんでいる人がいて、話しかけてみたのだ。陽気な人で、たくさん話をしてくれた。この団地に住み始めたのは数年前で、それまでは千葉や埼玉や東京を転々としながら働いてきたのだそうだ。長年溶接業をしていて、数年前にリタイアしたという。「溶接って言ってもね、好きでやってたわけじゃないんだ。集団就職ってあったでしょ。学校から『お前はここで働け』って紹介されたのがその仕事だったの。18歳でこっち出てきてからずっと」。出身地を聞かれてこう言った。「岩手。もうずっと帰ってないけどね」。

宮古の図書館でひとり、そのやりとりを思い出し、男性が出発した土地と、行きついた土地が繋がった。そうか、あの人は、まだあどけない少年の頃にひとり、ここ岩手から旅立ったのか…。男性が宮古市出身だったのかはわからない。しかし、こうも話した。「俺の故郷は港町でね。横浜に来て困ったのは、釣りができるところが全然ないこと。故郷では釣りばっかりしてたから、それが不満だったね」。「じゃあ、横浜で釣りできるところ探しておきますよ」と言うと、「そっか、悪いね。任せたよ」と笑った。岩手の港町から関東に行き、懸命に働いた人の姿を、私はしっかりと見ていたのだ。本にある先の記述をもう一度眺めた。そして、「大丈夫ですよ、当時ここから旅立った若者は、関東で立派にやっていますよ」と思った。

結局、その後男性に会うことはなかった。横浜の釣り場の情報を書いたメモは、相変わらず手元にある。いつか渡せたらいいなと思う。そして、男性の故郷の話を、もっと聞けたらと願っている。