見出し画像

どこだれ㉛ たとえ信仰がちがっても


ある地方に滞在中、地元で年に一度のクラフトフェスが開催されると聞いた。周辺の県からも人が沢山やってくるほど盛況のイベントだそうで、会場までシャトルバスが出るという。「普段からは考えられないほどの人出になるよ」という声に、おもしろそうだったので行ってみることにした。

バス乗り場はいくつかあるようで、当日私が行った乗り場に人はまばらだった。しばらく待つと小型のバスが来て、中から数人降りてくる。全員降りると、今度は乗り込む人がぱらぱらと集まってきた。
曇りという空模様だからか、午後という時間帯だからかバスは予想よりも空いていて、夫婦と見られる男女と、女性二人が乗るばかりだ。乗り込むと、斜め前に座っていた女性二人が声をかけてくれた。
「私たち、このイベントは初めてで。どちらからいらっしゃったの?」
中年女性と、もう少し年が上だろう女性の二人だった。しゃべり方の距離感から察するに親子でもなさそうで、趣味の友人か何かかなと予想する。作品の制作で滞在していると言うと、おもしろがってくれ会話が弾んだ。
「ここの土地はいいですよねえ。食べ物もおいしいし、人は親切だし」。
年上の女性はここに嫁いで随分になると言うが、年下の女性は最近引っ越してきたらしい。二人はそれより前から知り合いで、仲は10年ほどになると言う。
「この土地に魅かれて引っ越されたんですか?」と聞くと、「そうですねえ」とにこにこ笑う。それから、制作している作品のことや、イベントのことを話して盛り上がった。会場についても会話は途切れず、「よかったら一緒に回りませんか」という提案にありがたく乗り、広い会場を一緒に歩くことになった。

二人は、色々なことをよく褒めた。
女性がやっているホットドックのキッチンカーでは、「女性一人で全部さばいて偉いわねえ」と言い、犬を連れて会場内を歩いている様子を見て「わんちゃんも一緒に回れるなんていいイベントね」と言い、雑貨屋の前では「こんなに綺麗に花の裁縫をできるなんて、何より発想が素晴らしい」と褒めちぎった(そして、遠慮する私の手を制して花を模ったヘアゴムを一つ買ってくれた。「今日の素敵な出会いに」ということらしい)。
色々なことに肯定的な二人と回るのは新鮮だった。思いもよらない点に気づき、拾い上げるのは普段からなのかなと感じた。二人の心がけなのだろうか。

歩き疲れ、道端にあったベンチに三人で腰掛けて休憩していると、年上の女性が近くに咲いていた花を「あ、私の家でも咲き始めたのよ」と言い、スマホを取り出して写真を見せてくれた。様々な花が咲く庭で、本人は「小さいけど」と言うが立派な畑があり、季節に応じた野菜を収穫していると言う。冬は寒くてたまらないが、その寒暖差でおいしい作物ができるそうだ。
「〇〇さんの庭は本当にいつ見ても丁寧に手入れされていてすごい」と、年下の女性が言う。「遊びに行かれたんですか?」と聞くと、「前に一度だけお邪魔したことがありましたね」「ね」と二人が話す。年下の彼女は「育てられている野菜も本当においしくて、あんなにおいしいのが育てられたらって思うけど、なかなか」と残念そうだ。「お家で育てられないんですか?」と聞くと、「私は、いまシェアハウスに住んでいて」と言う。
「いいですね、シェアハウス」と話すと、「そうね、まだ土地のことは右も左もわからない状態だけど、生活は楽しいですよ」と笑った。「ご友人がいらっしゃるのは大きいですよね」と年上の女性にも笑いかけると、彼女が、「あの、ちょっと驚かせてしまうかもしれないんだけど…」と口を開いた。
「私たちね、宗教の関係で、知り合いになったの」。
そう言われて、色々な合点がいった。なので、その思いをそのまま口にする。「どうりで、お二人が、仲がいいのにきちんと節度はある距離感で話されてるなあって思ってたんです」。
すると、二人は顔を合わせて、少し戸惑ったように言った。
「こういうことに、抵抗はないの?」
「え…?」
「やっぱり、宗教って、知らない人からは怖がられたり、ちょっと距離を置かれたりするから」
「うーん…」
そう言われて、自分も幼い頃から仏教やキリスト教が身の回りにあったこと、そういう仕事についている友人もおり、宗教そのものに偏見がないことを伝えた。そして何より、宗教だとわかったところで、これまで一緒に過ごした中で築いた信頼は揺らぎませんよ、と話した。
二人は、驚きよりもどこかほっとしているように見えた。知っているかもしれないけど、と見せられたカードには、聞き覚えのある宗教の名前が書かれている。年下の女性は、生活で行き詰っている時にこの宗教を知り、そこで二人は出会った。色々なことがありすぐには来られなかったが、やっと問題に区切りをつけ、この土地の施設に引っ越してきたと言う。そこでは一つ屋根の下、同じ宗教の女性たちが暮らしているそうだ。

「私は、その施設には入っていないんだけど、家から集会に通っているの」と年上の女性が話し出す。彼女の場合は夫との関係がどうにもうまくいかなくなった時に、この宗教に出会ったのだと言う。詳しくは書かないが、「夫との関係がうまくいっていない」というのは、今の価値観で考えると訴えてもいいものなのではないかという内容だった。それでも彼女は、この宗教に出会って考え方が変わったことで、夫の態度が随分よくなったと嬉しそうだ。
「やっぱり他人は変わらないから。変えられるのは自分だからね。私はこの宗教に出会って、もっと感謝の気持ちを持って生活しようと思ったの。夫にも、ありがとうって伝えるようにして。そうしたら、少しずつ相手の反応って変わっていくでしょ。それによって私は救われてるの」。

そう話す彼女を見て、これは世間でいう「問題の解決」の尺度には当てはまらない考え方なのかもしれないな、と思った。私は、彼女にそういう態度をしてきた夫を許せないし、態度が和らいだところで、根本は解決されていないじゃないかと思う。彼がこれまでのことを省みたわけではないからだ。しかし、彼女にとってはこれが最善策なのだ。それが宗教の教えによって導き出された救いであると考えるならば、その信仰を誰も否定することはできないと思った。

別れ際、見えなくなるまで手を振ってくれた二人を見ながら、信仰とは何だろうと思った。もちろん悪意を持って身動きの取れない人を利用する宗教は悪だが、何にどう救われるかを他人が果たしてどうこう言えるのだろうか。

その後しばらくは、年上の女性から「今日の景色がとてもきれいでした」と美しい空と庭の写真が送られてきた。それを見る度に、彼女たちの信仰がどうか悪意を持って利用されませんように、彼女たちの苦しみが少しでも和らぎますようにと祈った。
ばたばたとしているうちに連絡は途絶えてしまったが、今でも時折、あの日のことを思い出しては同じように祈る自分がいる。