◎道後温泉クリエイティブステイ日記⑥前編
【滞在6日目】前編
朝市めがけて早起きしたものの、実際に足を運ぶとまだ始まり切っておらず閑散としていたので、電車の時刻までからくり時計の下の足湯に入る。8時になると観光協会の人が「おはようございまーす!」と元気に傘を立てに来た。昨日今日でかなりの観光客が来るのだろう、行楽シーズン真っただ中といった感じだ。
8時になったので伊予鉄で松山駅前まで出た。時間があまりなかったので急いでJRに乗り換える。アンパンマン列車に子どもが群がっていてかわいい。電車はなかり込んでいた。
今日は、先日予約した内子町のガイドの日なのだ。内子駅で降りるとこの日もなぜか雲ひとつない晴天で、嘘みたいに空が青々と冴えていた。駅前の観光案内所はこぢんまりとして、ひとりの男性がマウンテンバイクのレンタルを申し込んでいる。「自転車で巡ってもらうのに丁度いい規模の町だと思いますよ」と係の方が言っているのが聞こえた。
待ち合わせ場所に指定されていた、内子座へ向かって歩く。
町は全く人がおらず、とても静かだ。車通りも少ない。途中で「今畑から帰りました」というような長靴姿のおばあちゃんが、居酒屋の前で(そこの店主さんだろうか)若い男性と話しているのが目に入った。こういうのは、自転車だと何も思わず通り過ぎてしまうシーンだなと思う。
そのまま進むと、「8ミリカメラがおもしろい」「視聴覚機器はナショナル」などの文言が躍る、古い看板がかかったお店が続く通りに出た。穏やかな道で、本当に音がない。
てくてくと歩くと「内子座」という看板が見えて来た。この角だ。
左に曲がると、どっしりと構えた芝居小屋が目に飛び込んでくる。
これが、内子座…!
歴史を感じる木造の芝居小屋の前に、カラフルな色合いの旗が揺れている。白の壁に太陽光が反射して、町からふっと浮かび上がっているような印象を受ける。貫禄があるのに、どこか親しみやすさを感じる不思議な佇まいだ。
昨日今日と愛媛国際映画祭のイベントが開催されているそうで、受付には人がぱらぱらといた。「受付しますか?」と聞かれたので、観光ガイドの方と待ち合わせている旨を伝える。すると、「このあと14時から活弁があるので、よかったら寄って行ってください。無料なので」とお誘いいただいた。「じゃあ来ます」と答え、ガイドさんが来るまでしばらく外見を眺めたり写真に納めたりする。
すると、ふいに(スタッフさんだろうか)中から数人の笑い声がわっと聞こえて来た。その声に、背中の方からぞわぞわっと沸き立つような驚きを覚える。太い笑い声が、壁越しにも私のもとへ、わっと押し寄せるような感覚があったのだ。それはまさに声の塊という感じで、外にまでぐわっと迫って来る。
そうか、「会場が沸く」とは、こういうことだったのか…!
昔の木造の小屋ならではの感覚に、超満員の公演はさぞかしにぎやかなのだろうと思いを馳せる。
一人しみじみ感動していたら、ガイドのOさんがやって来た。小柄で元気な女性で、緑のジャンパーがとてもよく似合っている。結果的に、今回の滞在で唯一の女性のガイドさんだった。
軽く自己紹介をした後、「あれ、今日は内子座入られへんの?だめ?」と受付の方にさっそく確認を取っている。すると「いま一階に機材を入れてるので、二階だけなら…」ということになり、入らせてもらった。諦めていたので、小躍りで二階に上がる。木造なので靴下越しに冷気が伝わってきて、これは冬場はさぞ寒かろうと思う。
二階に上がると、壮観だった。
一階のマス状になっている客席がよく見えるほか、見上げると天井も美しいマス目で構成されている。左右には渋い筆文字で書かれた広告が掲げられていて、小ぶりのランプのような照明が場内をほんのり照らす。二階にいても舞台を遠く感じることはない、本当にいい距離感の小屋だと思った。声も二階のうしろまでよくよく通るのだろう。
「内子座は、大正5年に、大正天皇即位を祝って株式会社内子座という会社が建てた、650人収容できる芝居小屋なんです。戦後は映画館になっとって、確か私が中学生の頃じゃと思うんやけど、テレビが台頭したでしょう。みんながテレビを持つようになって娯楽がそっちに移ってもうて、商工会がしばらく事務所として使ってました」
Oさんはもう何十回何百回もこの言葉を繰り返しているのだろう。二階の真ん中あたりの客席に隣り合わせで座りながら、すらすらと説明する。
「私らも『内子座今頃どうなっとんじゃ』って言うてた頃に、商工会が『傷んだから町にあげる』言うて町のもんになってね。そん時に壊して駐車場にせえいう声もあったんじゃけど、偉い人がおるもんやねえ、『これからは古い町並みを活かしていかないかん。壊したらいかん』というた人がおって、直して、昭和60年から芝居小屋としてまた始まりました」
へえ~と頷くと、Oさんは一階の客席を指して続けた。
「席はね、ぎゅうぎゅうにつめたら6人位座れるんかな?昔は桝席と言って、ひと桝いくらで売り出しとったんです。ひと桝に何人座っても構わないから、膝の上に座って見る人もおったいうくらい。横が右からいろはにほへ…で、縦が一二三四五…となっとるでしょう?【いの一番】いう言葉は、ここから生まれたんよ。端が一番いい席で、株主さんたちの席やね。株主さんたちは入り口も違ってて、混んでる正面じゃなくて横のとこから入れるんですよ」
確かに、株主席はゆったりしていて随分見やすそうだ。
「こんなに小さな小屋やけど、結構色んなひとが来てくれてるんですよ。中村勘三郎さんの時なんか、私はがき10枚出しても当たらんかってねえ~」
はがき!時代を感じる!と思いつつ、一生懸命はがきを書いて10枚まとめて投函している様子を思い浮かべるとほっこりした。勘三郎氏や海老蔵氏など、有名な歌舞伎役者の人が来るとどうしても倍率が大変なことになって、内子町内の人が観に来られないという。そのことを気にかけて、興行によっては「内子町民専用の公演日」を設けてくれることもあるそうだ。
「そういう東京とか大きいところでやっている人が来るとおもしろくてね、内子座は古いから穴だらけでしょう、出番が終わって裏にはけた人の声が丸聞こえなんですよ。それで、役者さんに裏で注意する人がいたくらい」
Oさんはけらけら笑いながら話してくれた。他にも、「あの公演の時はこうだった」「あの役者さんは内子座でこんな掛け合いをしてくれた」などエピソードが次々出てくる。演目の思い出が、そのまま内子座という空間の思い出と一緒になって記憶されていて、それは何だか羨ましいことでもあった。
都会にある完全に管理された劇場ではなかなか感じられない、その小屋や土地ならではの楽しみ方が、ここにはまだちゃんとあるのだと思った。四国はここの他にもう一つ古い劇場があって、それは金毘羅歌舞伎を行う「金丸座」だと言う。そちらにも是非行きたいなあと思う。
本当はダメなのだけれど「いいでしょ。行っちゃえ」と言うOさんに続いて、一階に降りて説明をしてもらう。
「穴だらけなんで冷暖房の調節が難しくてねえ。夏の冷房は一階は冷えすぎるのに二階は全然冷えないとか、冬は下から凍える寒さがくるとか、いろいろ不便はあるけどね」と言う。回り舞台や花道、すっぽんの説明などをしてもらった後、「外に回って見てみようか」と一緒に小屋を出る。
「あそこに見えるのが太鼓を叩くところで、昔は紙が高くてチラシとかもまけなかったから、興行がある日は太鼓を叩いて公演あるよって町中に知らせてたんよ」
小屋の一番上に、なるほど立派なやぐらがあった。他にも、正面には招き猫ならぬ招き狐がいたり、小槌や桃の装飾があったりして、外見だけでも楽しめる。内子座のまわりにも古い佇まいのお家やお店が多くあり、趣がある。しずかな一帯なので、昔から、興行がある時は音が漏れるので予め興行主が近所をあいさつ回りするらしい。
Oさんがふと振り返って「汽車で来られたんですか?」と聞いた。それが電車を意味していることを察するまで少し時間がかかったけれど、頷く。
「昔は内子にも私鉄が走っていて、木炭を運ぶ電車の終着駅だったんですよ」
そう言うOさんは、今年で72歳だと言う。アグレッシブで動きがすべて早い。とろとろ写真を撮っていたら何回か姿を見失った。「戦後生まれですよ!」と言いつつ、「もう後期高齢者って言われるけど、そんなん80歳入ってからにしてほしいわあ」と笑う元気な女性だ。内子生まれ内子育ち、この町の歴史と共に歩んできた人だ。
「昔はね、ここらは一面桑畑だったの。この道は内子の銀座やね。ここ歩いてたら、何でも揃うって言うにぎわい通りやったんよ。週末になったら周辺の山からも買い物にたくさん人が来てねえ」
それが、車で少し行ったところにスーパーが出来てから状況が一変。皆そちらに流れてしまって、お店は次々閉じていったのだと言う。
「私がこういうところで買い物したいって言うと、娘が『でもお母さん、ひとつ一つ店回らんでも、スーパー行ったら全部揃うのに』って言うんよ。確かにそうかなあとも思ってねえ」
歩いていると、明治に入って内子に最初にできた学校が、いまは児童館になっている建物があった。他にも、昔の建物を活かしつつリニューアルして使っている場所が多い。
「昔は、内子は産業としては和紙。大阪におろして大津藩の財政を支えてたんやねえ」
そう言って昔の商家の建物をそのまま利用した「商いと暮らしの博物館」や「町屋資料館」などを回る。そこでしていただいた解説はどれも興味深かったのだけど、なによりOさんの実体験を聞く時が一番わくわくした。
商家はお金持ちだったことから、家の中に電話がある。それを指しながら、
「昔は一家に一台電話がなかったけん、急な用事とか夕立の時に電話を貸すのね。番号伝えたら中継ぎの人がつないでくれてね。私、近所のじいちゃんが電話かける時にいっつも呼び出されてね。怖いゆうて。じいちゃんは、向こうから人の声が聞こえるのが怖かったんやって」と言った。
電話から人の声が聞こえるのが怖い…今では考えられないような感覚だけれど、よくよく考えるとその恐怖心は正しいのかもしれないなとも思う。
五右衛門風呂の展示では、「こんなん入ったことないやろ?」と言いながら、丁寧に解説してくれた。
「五右衛門風呂は、燃やしてるときはもちろん縁が熱いから、当たらんようにこう、手を胸の前できゅっと交差させて小さくなって入るんよ。足は、下に木の板を引いて直接当たらんようにしてね。ほんで湯は上の方が熱いから、こういう木でかき混ぜて入るのね」
Oさんはかき混ぜる様子まで忠実に再現しながら(結構激しい)、当時を思い出しているようだった。
「たまに、夏とか熱いから外で行水したいって言うと、母から『あれは風呂がない人がするもんや』って言われたもんやねえ」と笑う。
その後は木蝋(もくろう)生産で栄えた上芳我邸などを見て回る。窓や装飾などに観られる時代の特徴や、この一帯に多い「芳我家」の歴史などを解説してもらったのだが、書き始めると膨大な量になるのでやめておく。
特に興味深かったのは、昔内子にあったふたつの芝居小屋の話と、古い町並みを保存する現状の話だ。
内子の古い町並みは、昭和57年に国の重要伝統的建造物群保存地区に認定されている。明治時代より前の建物が残されていて、もう今では再現できないような貴重な大工の仕事を見ることができる。外見の鶴の立体的な装飾を指しながら「あの鶴はもう120年位あそこで、形を変えずにこの通りを歩く人を見つめてるのよ」と言われた時は不思議な気持ちになった。100年前と来ている者も生活習慣も変わった我々のことを、あの鶴はどう思っているのだろうか。
そんな素晴らしい建築が見られる一方で、色々問題もあるらしい。
「空き家が増えて来てね。新しい買い手がついたらいいんやけど、色々規制が厳しいし、あんまり好き勝手できないのがねえ。内側はどれだけリフォームしてもいいけど、外見は8割程補助金が出る一方で内側には出ないから、なんだかんだ負担が大きくなってしまうんよ」と言う。
歩いている中で土壁を発酵させている途中の家があった。
「土壁っていうのは発酵の期間が一定必要なんやけど、それも最近は待てへんって言って短くなってるらしいしねえ」
技術的にも、当時の技を持っている人はもうほとんどいないらしい。「昔からの景観を残すっていうのは大変なんですね」と言うと、「残すって言っても、一回現代的になって、また戻してもらったところがたくさんあるんよ」と言う。聞けば、一度昭和の時代にトタンにしてしまった家にも、古い町並みを復活させるためにそれ以前の時代の素材に変えてもらったりなど、色々と手が入っているそうだ。まさに「住民の協力があってこそ」この地域は貴重な景観を維持していると言える。今も実際に住まれているお家もあり、町と住民がお互いに古い町並みの重要性を理解していないと、このように観光用に見せるのは不可能なのだと思う。
途中、若い女の子が列をつくっているお家があった。
「あれは何ですか?」と聞くと、最近できたパン屋だと言う。「気付いたらできていて、たくさん人が並んでる」そうで、食べたかと尋ねると、「食べた」と言う。
「でも、おいしいかは…わからん。日本人はやっぱり、米じゃけん」
強い口調でそう言うので笑ってしまった。厳しい意見だ。でも、Oさんは決して厳しい人ではなくて、しっかりと自分の軸を持っているのだと思う。Oさんが優しいのは、ガイド中にあった人全員に挨拶をしている姿からもわかった。もしくは、それがこの町で円滑に生きていくための術なのかもしれなかった。それでも、内子の人はやっぱり皆優しいのかもなあ…と歩いている間に何度も思った。話しかけられた方も、話しかけた方も決して相手を邪険にせず、必ず会話がはじまるからだ。
それはこんなエピソードからも知れる。
その昔、内子には「内子座」と「さきがけ座」という芝居があって、しかしこの狭いところに二つも芝居があったら客を取り合うだけだということで、団体同士が話し合い、結果さきがけ座はよそに移って、内子座が残ったのだと言う。
そんなことある…?話し合いで、きちんと方を付けられるところが格好いいなと思った。
歩いていると、「元活動写真館・森文旭館」という建物があった。大正14年に建てられた活動写真館で、今は保存会によって年に数回イベントが開催されているそうだ。見た目からして味があり、今すぐここをセットに映像を撮り始められそうな雰囲気だ。
本当に内子は文化が発展しているなあと思う。なぜですか?とOさんに聞くと「さあねえ」と言う。実際、その中で生活しているとそんなことは思わないのかもしれない。
そう言いながらも、「昔から金毘羅参りの人が通るし、お遍路さんもいたからかなあ」と口にした。やはり人の流動性が高いのが、文化の発展には必要な要素なのではないかと思う。
一通り回って、帰り道をてくてく歩く。
Oさんは元保育士で、60歳まできちんと勤め上げたと言う。それまでも「ボランティアガイドをしてほしい」と言われていたものの断っていたので、定年した折に「公約だから」と始めたそうだ。
今は娘と孫も内子に住んでいて、最近は孫の面倒を見るのが生きがいだと言う。
「孫は元気の源じゃけん。子どもは生んどった方がええで」
Oさんはそう言って笑い、「じゃ、家がこっちやけん」と言って別れた。それまでのガイドさんと同じく、さっぱりとした最後だった。
(⑥後編に続く)