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生きたいのか死にたいのか

ふとした時に、私は生きてていいのか?という気持ちに襲われることがある。私が死んだら誰が悲しむのか、なんてことを考えてしまう。きっと悲しんでくれる人はいる、はずなんだけど。

いつの日かの暗い夜、私は本当に死んだ方がいいとか、みんな私のことが嫌いだとか、そんなヤツは生きる価値がないとか。そんなことばかり頭に浮かんでしまって、自分を傷つけずにはいられなかった。切って、一旦思考停止させてから、ぼーっとしながら過ごした。

私の場合、死にたいという言葉の裏に自分の本音が隠されていることが多い。例えば、バイトでスタッフに冷たい態度をとられた→用無しだと思われてるのではないか→居る価値がない→私って何もできないから死んだ方がいい→死にたい。つまり、死にたいを辿っていくと、「バイトで冷たい態度をとられた」ことが根元。だから、バイトで冷たい態度をとられたことの意味を考えると、相手が疲れているだけ、実は冷たくなくて、私の判断が鈍っていて感じ方が良くなかった、とか。

根元からひん曲がっているなと感じた。カウンセリングでも話しているうちに、過去に親に言われたことが自分の当たり前になって、それに苦しめられていることに気づいた。この呪縛を解くのは大変だろうし、そんな大変なことをするのなら、自分と向き合うのなら、死にたいと思ってしまう。最近本当に思う、私は自分と向き合いたくないんだって。過去の呪縛、家族関係のこと、卒論、就活。勿論、1人で向き合うことは大変だけど、誰かと一緒に考えるのでも、相当な体力や気力がいるなと感じる。

全部面倒。もうどうでもいい。

そうはいっているが、人生はそのままでも進んでいく。生き方に正解はないし、別に大学を中退したって、ニートになったって、自分の人生だから良いと思っている。ただ、私はまだ世間体という呪縛に囚われているから、この先も一般大学生のレールを走るのだろう。一般大学生でいるのは私にとっては苦しいけど、レールを外れて親に批判されるよりはいいかと思ってしまう。

私の人生が、誰のものにもならないよりは、親のものになった方が生産性はいいか。頭にある死にたいが離れない。ずっと。今の私には気を紛らわせることしかできない。できるだけ、暗く苦しい夜になるのを避けるために、ポジティブを頭に浮かべたり、スマホゲームをしてみたり。でも、一時的には紛らわせることはできても、そうしていない時間は死にたいが浮かび上がってくる。本当にふと、「あ、死んでも良いか」と、楽しいことも悲しいことも浮かばずに行動化してしまいそうになる。今は行動する前に理性が働いているからまだ大丈夫。でも本当に理性がきかなくてやってしまったら、怖いよね。

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