2024年1月に観た映画
1月に劇場鑑賞した作品。
内容に踏み込んで書いてある部分もあるので、ネタバレ注意。
PERFECT DAYS
あらすじだけ読んだ時は、低賃金で働く清掃員を天使のように描いて「貧しいけれど、これはこれで幸せ。これが私の生きる道」っていう映画だとしたらちょっと都合が良すぎるファンタジーじゃありませんかねと思ったものの(どうもTOTOが絡んでるっぽいし)、実際に観てみるとそう単純な物語でもなく。
劇中で滅多に話さない無口な主人公・平山。
彼が、自分が思っていることを口に出さないからこそ、本当は彼が何を考えているのか全く分からないことがこの物語を少し重層的にしている。
そして、ラストの長回し。あの時の彼の表情は如何様にも読み取ることができるのだ。
最後まで観ると、「PERFECT DAYS」というタイトルの意味もつい深読みして考えてしまう(もしかして凄い皮肉なのか!?とか)。
彼の過去も、どういう経緯で今の生活に至ったのかも、家族とのことも多くは語られない。
長年にわたる逃亡生活の末、先日亡くなった桐島聡と思われる男性の生活がほぼ今作の平山だという指摘もなんだか味わい深い。
とはいえ、基本的には彼が生活の中で見つけるささやかな幸せ、喜びが描かれているのは事実で、観た後はあの缶のカフェオレが飲みたくなるし、犬山イヌコがいる古本屋に行きたくなる。
人生の、ふとした優しい瞬間。
まさにkomorebiのような何かがそこに映し出されている。
ついつい先のことを考えては憂い焦ってしまう私達だけれど、今度は今度、今は今。今をどれだけ生きているのか。
何より大名優・役所広司がこの作品で世界的に評価されているのだから。
ヴィム・ヴェンダース監督ありがとうの気持ち。
「彼が笑っているんだから、この世界はきっと捨てたもんじゃないだろう」と思わせる役所広司の力。
まだまだこれからもずっと、彼の演技を見ていたい。
窓ぎわのトットちゃん
黒柳徹子のワンダフルかつ壮絶な幼少期。
子供の無邪気な視線で紡がれる日常と、静かに、しかし確実に近付いてくる戦争の足音。
子供がお腹を空かせて泣く。そんな世界が良い世界なわけない。
今だったら何かしらの医学的な名前が付くのかもしれない、トットちゃんの特性。
トモエ学園に行くまで、きっとこれまで周りに謝ったり不安に思うことも多かったであろうお母さん。
障害があることで、周りの子供のように服が汚れるまで遊んで帰ってくることは無縁だった泰明ちゃんと、そんな彼のとある日の服を見たお母さん。
自分が年を重ねるにつれ、母目線でぐっとくるシーンが多くある。
乗り物のシーンはちびまる子ちゃんの「わたしの好きな歌」を思い出したし、やっぱりいわさきちひろタッチになるところはぐっときた。
同時に、あそこは(プールに入るための)子供の裸を描く際、あのタッチにすれば少し見やすくなる(生々しくなくなる)という工夫も。
何より嬉しいのは、トットちゃんが90歳になった今も元気に毎日テレビに出ていること!
「この作品内で何が起きようと、少なくともトットちゃんは大丈夫」という安心感。
そして、泰明ちゃんが亡くなったところは、本当に知り合いの子供を亡くしてしまったような喪失感。
この喪失感こそ、彼の実在感というか、物語の強さである。
PERFECT DAYSに続き、役所広司という名優を再確認する作品でもある。
PERFECT DAYSのラストは表情だけで語っていたが、今作はラストの言葉が凄い。
コンクリート・ユートピア
※予告編・本編には地割れ、建物崩壊など災害描写があるので注意※
公開タイミングがあれだったのであまり大きく宣伝はされなかったものの、改めて韓国映画の面白さを再確認する一本。
社会派な部分とエンターテイメントの両立がさすが。
昨年の「非常宣言」といい、年始に観る韓国映画に外れなし。図らずも、イ・ビョンホンのパニック映画二部作でもある。
唯一残ったアパート。そこが徐々に世界の縮図になっていく。
籠城するところも含めて、今作は災害パニックものというよりはゾンビ映画に近いものがあるかもしれない。
この次に書く映画にも通じるが、基本的に「ユートピア」と言われている場所が本当にユートピアであった試しがない(そもそもトマス・モアが言うユートピアが本当に理想的なのかという話だが)。
それでも一応、「ユートピア」ということでマンションのルールをリズミカルにカメラ目線で説明するところとか、もう完全にディストピアと化しているようにしか見えない怖ろしいカラオケのシーン(ちょっと遠景のところとか凄い)とか、印象に残る場面がいくつもある。
今回、スター性を封印し常に目が死んでいるイ・ビョンホン演じる男は、周りが騒いだ結果持ち上げられてしまい狂気に染まっていく、ある意味彼も悲劇の人みたいなキャラクターかと思いきや、すでに犯罪者だった(事情はあるが)、そして彼こそが誰より彼の言う「ゴキブリ」であるという展開は面白かった。
ミョンファのラストの台詞は、私達に重くのしかかる。
ビヨンド・ユートピア 脱北
脱北中に山間部で身動きが取れなくなってしまった五人家族。
北に残してきた息子を脱出させようと試みる、韓国で暮らす脱北者の女性。
おもに二つの家族の奮闘が描かれるドキュメンタリー。
どうやって撮影し映像を入手したんだと驚くばかりの、実際の北朝鮮の人々の生活も映し出される。
北緯38度線という言葉はよく聞くものの、いわゆる「脱北」ってどうやってやっていたのか全く知らなかったため、この映画を観て衝撃を受けた。
壁を一枚乗り越えるとかそんな単純なものではなく、すぐ隣の大韓民国に行くために、とんでもない労力と遠回りが必要になってくる。
そんな脱北の手助けをするキム牧師の志、そして何より彼の人柄に惹かれる。もちろん、彼も常に危険と隣り合わせなので、とにかく身を案じてしまうのだが。
これまで自分が教えられてきたこと、信じてきたことが全くの偽りだったと分かる時。
それは生きてきた年月が長ければ長いほど、自らの人生すら否定されるような気持ちになるのだろう。
「金正恩様は世界一賢くて正しい。国が栄えないのは、私達国民の努力が足りないから」というおばあさんの言葉がとても苦しい。
「北朝鮮の人たちって洗脳されていて怖い」「国に反抗すればいいのに」と安全な場所から指摘するのは楽だが、きっと自分だってあの場所に生まれあの教育を受けていれば、きっと彼らと同じように人生を送るだろう。
今作はコロナ禍直前に撮影されたものである。
出入国が制限されたコロナ禍では、おそらく脱北事情も変化があっただろう。
終息はしていないものの、一応世界的にコロナの規制が緩和されつつある現在の状況がどうなっているのかが気になる。
ファースト・カウ
鳥には巣、蜘蛛には網、人には友情を。
西部開拓時代のオレゴンを舞台に描かれる男たちの友情、そして言葉では表現し難い関係。
その点で、何年か前に観た「ゴールデン・リバー」も思い出すような作品。
教科書には載らないような、歴史には残らないほんのささやかな人間の生活、その物語。
でも、私達観客は君たちの友情を忘れないからね、と伝えたくなる。
牛が富の象徴であり、たった一頭運ばれてくることがおおごとであるというレベルの土地(この一頭運ばれてくる様子もなんか間抜けで良い)。
これ大丈夫なのか…と観客も若干心配になる甘い甘いビジネス。
しかし彼らが作るドーナツが美味しそう!
映画館でコラボメニューを出してほしいくらい。
「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」でアカデミー主演女優賞にノミネートされたリリー・グラッドストーン、登場時間は少ないものの存在感がある。
先住民の女性ふたりが「久しぶり~」という感じで交流するちょっとしたシーンの良さ。
こう物語に導入するのか!という意外なオープニングと、巡り巡ってオープニングに繋がる、深い味わいを残すラスト。
切ないけれど、ただ悲しいバッドエンドとは言い切れない。
しみじみ良い映画。
その手に持つべきは、ドーナツか拳銃か。
枯れ葉
前作「希望のかなた」プロモーション時に突然の引退発表。
と思いきやあっさりとカムバックを果たしたアキ・カウリスマキ。
引退撤回をしてまでカウリスマキが伝えるものとは何なのかと身構えると、そこに描かれるのはささやかな愛の物語。
連絡先を書いて渡したはずの紙が風で飛ばされ、紛失してしまう。
こんな他の監督なら恐れてもうやらないようなベタベタな演出を、平然とやってのける。
ただこれが映画の魔法というもので、まるでその紙が枯れ葉のように舞う様が忘れ難いシーンになっている。
この物語は昔の設定なのかな?と思いきや、アンサが聴くラジオからはロシアのウクライナ侵攻についてのニュースが流れている。
常に「労働者」を描いてきたカウリスマキ。
主人公が職を失うシーンも頻出するが、その度になんやかんやでまた次の仕事を見つけ生きていく人の姿も描かれる。
日々働き、戦争に怒り、愛する人と思いが通じることに喜びをおぼえる。
それは、まぎれもなく現実を生きる私達の姿そのものである。
小津安二郎(の作品に出てる笠智衆)リスペクトとも言えるのだろう、トレードマークでもある登場人物たちの真顔・棒読み。それがより台詞や起きている事態の可笑しさを増す。なんならカウリスマキ作品おなじみの犬も真顔・棒読みしている気すらしてくる。
主人公ふたりだけでなく、それぞれの友人、映画館から出てくるシネフィル(?)、看護師など、隅々まで出てくる人が可笑しく愛おしい。
仲良しのジム・ジャームッシュをはじめ、さまざまな映画ネタも。映画館に貼られたロベール・ブレッソン「ラルジャン」のポスターが印象的。
淡々と、そしてとっておきのウインクと共に描かれる愛と生活の物語。
この後に初期作「マッチ工場の少女」を観て「暗!!!」となった。ある意味主人公の目的は達成される話なのだけど。あまりにも救いがない。
哀れなるものたち
あの原作をどうやって2時間の映像にするんだ?と思ったが、結構脚色している部分も多い。本も映画版も、上下がつけられない最高峰のエンターテイメントだと思う。
原作は結構どんでん返しものと言ってもいい作品になっているので、興味がある人はこちらもおすすめ。
序盤では身体は大人の女性、知能は子供という逆コナン状態のベラ・バクスター。
一瞬、所謂born sexy yesterdayものなのか?となるが、もちろんこれは物語導入のための、あの家の中における「地位がある理知的な男性」と「未熟な女性」の超分かりやすい対比である。この序盤の超分かりやすい対比が、ベラがさまざまな経験を経て成長していくにつれ、より複雑な物語に展開されていく。
昨今の現代的メッセージを含めた作品全般に通じるものだが、これはもちろん男と女をただ対比し対立させる話ではないのだ。
ヨルゴス・ランティモス作品おなじみの、魚眼レンズ使いをはじめとした独特なカメラワーク、モノクロとカラーの対比、印象に残る衣装と美術デザイン、不協和音のような音楽。そのどれもが目まぐるしく妖しく美しい。
複雑なベラというキャラクターを演じきったエマ・ストーンは素晴らしく、短い出演時間ながらハンナ・シグラの存在も重要。出演作「マリア・ブラウンの結婚」は昨年ベスト10にも入れた大好きな映画で、この二作の繋がりは感慨深い。
何度奪われようと、私達は再び本を手に取る。
大切なメッセージが込められていながらも、ルックはかなりCampで、歪な物語で、声を出して笑えるシーンもあって、台詞で長々と説教するのではなくその圧倒的な映画的イメージを駆使した本作。
R-18指定も納得の性的シーンが多いが、決して観客に消費されるためのシーンにはしていない。主演のエマ・ストーンは本作にプロデューサーとしても関わっており、製作に参加している立場であるということも安心材料だろう。
自らの性器は男に挿入されるためだけのものではなく、自らの快感を得るためのものだという終盤の台詞は象徴的(ベラがはっきり「クリトリス」と言う)。
私たちの頭も、心も、身体すべては私自身のものである。
しかし、人を見下し、権利を奪い、差別し続けた者の頭と心と身体はどうなってしまうのか…?それはラストを見てのお楽しみ。
トッド・ブラウニングの「フリークス」か!