2023年5月に観た映画
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3
ジェームズ・ガンほど、自らの過去の失敗に向き合っている作家もなかなかいないのかもしれない。
『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』に引き続き、「子供に酷いことをするやつは問答無用で許さん!」という強いメッセージを感じ、作中で登場人物が言う「失敗してもまたやり直せばいい」という言葉は、まるで自分自身に向けた言葉のよう。
トロマ映画出身監督ならではのビジュアルインパクトの数々に驚かされる作品となっている。
いろんな宇宙人が出てきて、いろんな星が出てきて。
当然、これだけ広い宇宙なのだから、たかが地球人や人間の想像など遥かに超えるような世界が、きっとたくさん広がっているのだろう。
遠くに小さく見えて、そこからこちらへ向かってグーンと飛んできてどんどんアップになるアダム・ウォーロック登場シーンなど、3Dで観た甲斐があった!と感じる場面が多々あった。
明かされるロケットの悲しい過去、そして彼の命の危機とシリアスな展開も続くが、基本的には相変わらず軽口をたたいたりしょうもない言い争いをしていたり、やはり基本的にはいつもの彼らである。
そんないつもの彼らが、誰かのために一生懸命になったり利他的な行動をとる時、観客は胸が熱くなる。
ミケランジェロ作『アダムの創造』オマージュシーンは、しょうもないが感動的なシーンの頂点だろう。
ひとまずの完結作ということで、チーム全員に見せ場があり、全員が主人公のような作品だった。
MCUファンに最高の置き土産を残したジェームズ・ガンが次に引っ張るのはDC。
彼が創造する新たなスーパーマンが楽しみだ。
ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー
マリオはマリオカートを昔少しやったくらいで、キャラクターの設定はほとんど知らない状態で鑑賞。
まず、彼らの両親を見るにマリオブラザーズがわりと自分と年齢が近そうなことに驚いた(おじさんだと思ってた)。
マリオをよく知らない自分でも何となくどこかで聞いたことがある音楽の数々が、アレンジされながら劇中で使用流れるのが楽しい。
例え画面上で何が起こっても、主人公がどんな目にあっても、観客はただ椅子に座ってそれをむざむざと見ていることしかできないのだという本質をもつ映画と、自らの手で操作をし自らが主人公になるゲームはそもそも相性が良いのだろうかと考えたが、劇中で何度失敗してもまた立ち上がり挑戦を続けるマリオの姿は、まさしくゲームプレイヤーそのものなのだろう。
途中でマリオが私達の現実世界にやってきたり、最後にこのマリオをプレイしているのは誰なのか明かされるのかな?と思ったけれど、そういった展開は無かった。
PCがないから、社会的メッセージがないからこの映画が好きだし、この映画はヒットしている理由はそこにあるという感想をSNSで目にした。
でもマリオはブルーカラーのイタリア系移民である。
ブルックリン在住であること、彼のキノコ嫌いが示す意味。
英語の訛りについて触れるシーンもあるのに…。
もちろん、ピーチ姫がキュートなだけでなく超クールな存在として描かれていることも(そしてクッパは彼女のそこの部分にも惚れているという)。
多くの子供たちが楽しそうに観ている、ほぼ満員の劇場で観ることができて良かった。
めちゃめちゃニヒリズムに陥っている謎のキャラが気になった。
あいつ何だったんだ。
TAR/ター
予告を見た時、『セッション』的なスポ根音楽映画かと思ったのだが、徐々に心霊映画のようになっていくこの作品。
様々な要素が画面の端々に散りばめられているため、一度観ただけではまだ理解しきれていない、掴みきれていないことも多くあるだろう。
バッハの人間性を受け入れられないとして、では音楽を学ぶ時にバッハを避けて通れるか?といった所謂「キャンセル」することについても考える作品である。
序盤、やけに長々と続くインタビューシーンが、既に今作のテーマを物語っていたように思える。
指揮者とは単なる人間メトロノームではない、時間を操るために指揮者が存在しているのだ、そう答えるリディア・ターは、自分自身の人生だけでなく、周りの人間すら指揮をして完璧にコントロールしていた。
同時に、女性であり、レズビアンを公表している彼女があの世界であそこまで登りつめるためにはそれほどのガッツが必要だったのかとも思える。
『キャロル』でルーニー・マーラを見つめていた時とは違う、お気に入り生徒を見つめるケイト・ブランシェットのゲスな視線演技は絶品だ。
作中で実際に指揮をし、ドイツ語を堪能に操る彼女。
ケイトの演技が凄い、など今更言うことではないが今作では更に圧倒される。
オーダーメイドのパンツスーツをスタイリッシュに着こなす姿も美しい。
結果的に、彼女はどん底まで行ったかもしれない。
これまで多くの者を搾取し狩ってきたひとりのモンスターは、ついに自らも狩られてしまった。
今まで彼女がしてきたことを考えれば、当然の報いだろう。
それでも彼女はまた一から音楽へと向き合うのだ。
人生は続いていく。
最後まで行く(2023)
後述する2014年の同名韓国映画をリメイクした作品。
なんでよりによって今!?その件、今以外ならいつでもいいんですけど!?というような、立て続けに様々なことが起きていっぱいいっぱいになってしまう日というのは、1年に1日くらいあったりする。
岡田准一の追い込まれ顔演技もあり、観客も一緒になって「勘弁してよ…」というスリルを味わうことができる。
正直、工藤はかなり序盤から詰んだ状態の連続で、よく「最後まで」行けたなと感心すらしてしまうのだ。
普通なら逆になりそうなキャスティングの組み合わせ。
アクションのイメージが強い岡田准一が特に前半はひたすらアワアワしているのが愉快だし(防犯カメラを見つけたところとか、完全にホラー映画でやばいものを見てしまった時の顔である)、表面上はあくまで冷静を装い笑顔も見せながら、実は工藤以上に追い込まれた状況である綾野剛演じる矢崎がかなり怖い。
特に矢崎パートの結婚式前夜~当日のシーンは最高である。
「感動した」の台詞は、綾野剛のアドリブなんだとか。
どこまでも盛り盛りで見せてくれるサービス精神も嬉しい。
このタイトル、この内容であれば、もうこの作品の終わらせ方はこれしかないでしょう!という大納得の日本版オリジナルのラスト。
車で始まり車で終わるところも非常に映画的。
優れたリメイク作品がまたひとつ誕生したのでは。
こういう娯楽作を、ぜひ日本映画で定期的に観たいと思う。
最後まで行く(2014)
同名の日本版を観てから、リメイク元である今作を鑑賞。
日本版が結構オリジナルの要素を足していたので、「えっ、ここで終わりなんだ!」と思ってしまったのもあり、順番としてはこのオリジナル版を先に観ておいたほうが良かったのかもしれない。
こちらは追いかけてくる謎の男・パクがどういった人物なのか、彼がどういう状況なのかが日本版に比べて詳しく描かれないため、「よく分からないけど恐ろしい男にひたすら追いかけられる」という、裏側を知らないからこその理不尽な怖さがある。
そのため、日本版よりも(ブラック)コメディ感は薄く、よりサスペンス味が強くなっている印象。
演じるチョ・ジヌンのガタイの良さも日本版の綾野剛とは対照的で、こんな大きな人に追いかけられたら怖いに決まっている。
土葬の韓国ならひょっとしていけるかもしれないが、やはり火葬の日本でこの作戦は無理があるだろう。
「どんなに上手く隠したつもりでも、悪事は誰かが見ているのだ」という象徴とも思える存在の犬が無事で良かった。
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