第二思春期のまにまに
去年の5月にわたしはまるっと四半世紀を生きた。
1年間は体感5秒で過ぎ去り、今年26歳を迎えた。
26歳になって思う。
うちらはきっと、今、第二思春期まっさかり。
いや待て待て、なんだよ第二思春期って。
自分で考えてみたのですが、なんか、この言葉絶妙にキモくないですか?第二ですよ、第二。一番にもなれないけど一番に限りなく近い、第二。
「思春期」という、やたら曖昧でぬるりとした言葉を微妙ポジションの「第二」にくっつけるだけで、不快指数がグーンと増します。
なるべく避けて通りたい、でもまさにうちらにうってつけでは?みたいないい言葉を考えたな、と思ったのですが。
今し方、第二思春期と検索をしてみたら実はすでに存在している言葉だった。
検索結果を眺めてみれば、”大人女性に訪れる第二思春期!?”だの、”大人の思春期「第二思春期」に悩む女性は約6割?”などなどの見出しの羅列。しかもそれが訪れる年齢は40~60代とのこと。
いやちょっと待て笑
確かに実年齢には見られないことの多いわたしですが、さすがにそこまでの経験値はありません。
それはむしろ40代〜60代の女性に失礼です。
しかも何だ、女性ばかりがフィーチャーされている記事ばかり。冗談じゃない。もちろん女も例外ではないけれど、男だって引けを取らないぞ。
第二思春期と検索しても近からず遠い記事しか出てこないのであれば、わたしの考える第二思春期をつらつらと書かなければなりませんね。
25歳を過ごし、26歳を迎えた今、わたしは大変イタい奴だと思う。そしてこれを余裕綽々の顔で読んでいる同世代のあなたもまた、実は相当イタいはずです。
25歳頃になれば、高卒であっても大卒であってもフリーターであってもフリーランスであっても、
きっともう社会において新人なんて時期はとうに過ぎている。
なんとなくでも、社会ってこんな感じ、世界ってこんな感じ、と、経験による確かな根拠により自分の物差しが出来上がってきているような時期にわたしたちはいる。
(わたしはフリーランスが長かったので会社組織についてはよくわからないけれど)
会社勤めをしていれば後輩もできて、割と責任の大きい仕事も任されるようになってくる頃。
組織や決まったルーティーンの中で生きていくことに小慣れてきて、一端の社会人としての面構えが出来てくる頃。
自分はこのままで良いのだろうかと転職を考え始めたり、実際に転職する人も出てくる頃。
ありあまる時間を共に過ごしてきた友人たちが結婚や出産を経験しているのを横目に仕事に専念していたりもする。
自分が家族を作ったり、親になったりする頃。
社交辞令や世渡りのルールを知り、大体そうやって社会は成り立っているのだとわかり始める頃。
自分の能力を過信して、まだギリギリいけると思い込みたい時期でもあるかもしれない。
精神的にも経済的にも余裕が出来始め、今まで手をつけられなかった趣味を始めてみたり、今まで馬鹿にしてきたものに触れてみたり、自分を磨いてみたりする。
この時期について連ねてゆけばそれらは結局、誰にとっての人生そのものなのだけれど、わたしが思うに25、26、27歳あたりのそれらは他の年齢のそれらよりちょっと一味違うように思う。
死ぬこと以外はかすり傷だとなんとなくわかってきて、人生は思っているより長く、人生は本当に1度しかないんだと自覚し始め、自分とは何か、人生とは何かを考えながら、それでも我々はまだ若いんだという意味のない自負を腰に引っ提げて、めきめきとした肉体で街を闊歩する。
なんだか、なんだか、それって結構イタくない?
闊歩しているみんなの顔にはわたしが主人公です!と書かれている。(筆文字でドドンと書かれている人もいれば、鉛筆で控えめに書かれている人もいる。)そのくせ謎の自信や勘違いとは裏腹に、どうにもできない不安が体を纏っている。
中学生の頃のそれとは違う、妙に自信を帯びた、けれどまだ振り切れていないやや不安定なそれ。そういうふうになりたい理想と、なれるかわからない不安。
朝8時の満員電車の丸の内線に乗るくたびれたサラリーマンや、夜22時の新橋で年不相応にはしゃいでるオッサンには無いそれ。
人生の主人公は自分でしかない。なので何も間違っていない。けれど、この年齢がいちばん自意識と他意識の間で葛藤していると思えて仕方がないのだ。
えー、26歳のわたしも非常にイタくてですね、
そもそもこんなことを能書き垂れてる時点でそうなのですが、全然それだけじゃないですよ。
わたし、35歳になるまでにスタジオを開くつもりだし、40歳になるまでに沖縄と東京の二拠点生活を実現させるつもりで、50歳になるまでにはこの日本のカルチャーリテラシーの底上げの一端を担っているつもりだし、死ぬその瞬間まで絵を描き続けていると思ってる。それを純度100パー本気でやると思ってる。
それなのに、自分のしてきた経験にそれなりの自信はあるのにまだまだ正解なんてわからなくて、選んだ方を正解にしてゆくしかないとわかっていながらも選び取るときの迷い方は異常。
わたしのことどう思うだろう、今の発言どう思われただろうか、この人の発言の意図はなんだろうか、この人の行動の意図はなんだろうか、信じられる?信じていいの?どっちが正解?右に行く?左に行く?右か左か選ぶ時が訪れたら面倒になりそうな方へ進めベイベーと志磨遼平は歌っていた。
自分の経験と直感を置いてけぼりに、あーだこーだぐるぐるしながら日々のやるべきことをこなすのに精一杯で日々をなんとか生きて、生きながら、あらゆることを棚に上げて自分自身の春に思いを馳せる。(やば〜い、イタすぎる。)
でもね、そのイタさが、自分や同年代のイタさがたまらなく素敵だなあと思います。我ながら。
思春期なんて、イタければイタいほど良いでしょう。堂々とイタかったから、きっと中学生活も良い思い出になった。
そしてきっと、今のこの瞬間、昨日や今日、明日も、結構イタいよ。
でもだから、きっとそれがすっごくすっごく良いんだよ。
今日の自分が、60代になった自分にあの時の自分は若かったな、良かったな、おもしろかったなと思わせる日を作るんだよ。
60代になってその気持ちになったことはまだないのですが、きっとそうだと思うんです。中学生くらいの頃の、いわば第一思春期をすでに我々は経験済みなのですから。
なので(無理になる必要はないですが、)イタいからこそ、盛大に挑戦して失敗できちゃうんです。
妙にスカして、ふーんみたいな顔して何もしないなんて損じゃない?それに、それはそれで結局イタいしね。(あとそういうタイプの人は30代後半くらいから拗らせ激ヤバ人間になりかねないので要注意です。)
だいじなのは、変に自意識を加速させずに、時に自分を顧みながら人生を豊かに楽しむことだと思います。
隠す必要もなければ、ひけらかす必要もなくて、だってどう頑張ったって、人間はロマンチストで愚かで美しいことは隠せない。
そんなことを書いていたら、結局人生ってずーっとそういう感じなんだろうな、と思う。
じゃあ、我々は万年思春期じゃないですか。
そうだと思います。だけど、この不快指数の高い「第二思春期」はまさに20代後半の、社会においての中学二年生的なポジションにいる我々にはうってつけの表現ではないかしら。万年思春期に突入するためのゲートなのではないかしら。
であれば、きっちりど真ん中くぐり抜けたいものですね。
春を思う。普通にナイスじゃん?
だってそれは、思い続けられない人より何百倍もかっこいい。
それを本気で求めたら、きっといつか本物になれるって本気で思う。
第二思春期から逃れられない同志たちと、いい年して拗らせて他人を振り回す人間にならないように、わたしは明日が良い日になるように豊かに生きてゆきたいと本気で思う。
みんなとならなんでもできるって、本気で思う。と、盛大に第二思春期まっさかりの言葉で締め括らせてもらいたいと思います。ビガップです。
2023.07.17. nomura elico