三日月の麓にて
意識が朦朧としてくるまで絵を描くのが好きだ。
もう疲れちゃったな〜とうっすら思ってから3時間くらい経つともう描きたくない〜と身体が悲鳴をあげはじめ、それからまた2時間くらい経つと、
もう何も思わなくなる。感じなくなる。考えなくなる。
そこから大体2、3時間くらいはほぼ完全に無意識で、手と眼だけが動いてる。
ある瞬間が来ると、あ、もう辞めようって筆を置く。
ここまでやって、ああ今日も描いたなあとなる。
筆と筆洗器とパレットを洗う体力と、家に帰るまでの体力を残せるようになったのは成長。
意識が働いている時の絵は上手だと思う。
きれいだと思う。でもあんまりおもしろくなくて、描き上がったあとで見てみると、うん、まあこれ描いたもんなあとなる。だけど意識が朦朧としている時に描いた絵は、こわくて不思議でおもしろい。
わたしは恐くてたまらないんだなと思う。
それなのに自信だけはあるのだな、と思う。
生活ががらりと変わって、もうすぐ半年が経つ。
その間に、じわじわと価値観も揺れて、たぶん自分では好きでなかった要らないところが徐々に削れて、随分さっぱりした。4ヶ月前の自分の文章ですら、なんかアツくて、なんかすげえなぁ。と思った。
生きててよかった。
絵を描きはじめてから最初の5時間くらいはずっと、いろんなあれこれが浮かんでは消え、浮かんでは消える。
カレンダーの絵を描きながら、ちょうど1年前のことを思い出す。
1年前の今頃もこうして12枚の絵を同時に描いていた。個展が終わり、おじいちゃんが死んで、好きな人とも別れた秋だった。
それで、一心不乱に絵を描いた。あまりにもいろんなことが多すぎて、12枚描くのはあっという間だった。
絵そのものには記号性が無いけれど、それでも翌年への希望や期待や祈りを、とにかく良しとされているものをひたすら詰め込んでいたように思う。
大変だったね、お疲れさま。頑張ったよ。と、
去年とは比にならないほど色々あった今年のわたしはそう声をかけてあげたい。
今年は、ひとりだけ大切なひとが死んだ。
それでもそれは、ちいさくてちいさかった。
誰もそのひとのことを知らなくて良かった。
大切な友人も家族も好きな人も死んでない。
いま元気に、それぞれの場所で生きていて、
とても嬉しかった。
絵を描いているときの脳の動きって夢を見ているときの動き方と似ているのかな。
人生のなかで起きたあれやこれやが、時間軸など関係なくひっきりなしにこっちへきたりあっちへいったりする。のびたりちぢんだり、忙しい。
そういえばあるとき、いつだったか思い出せないくらいのいつかの日、いいなと思っていたひとにお花を持って行ったらどうしてそんなに優しいんだと言われたことを思い出した。
その優しさは一方通行だよと言われた。恵里子ちゃんはお花を渡したけど、そのあとは?と。優しい?自分のことをそうは思えなかったし、お花がかわいそうだなあと思った。
わたしは、何かをしてほしくてお花を持って行ったのではなかった。
ただ、可愛らしいなと思ったものを、可愛らしいねと一緒に喜んでほしかっただけだった。
そんなふうに怯えずに、可愛いね、ありがとうと言ってくれるひとが今いてくれていることがどれだけ心強いかわからない。
思い出す、過去にあったちいさなきゅっとなるような出来事たちが自分をひどく臆病にさせているんだなあと、絵を描いているときに自覚する。
ものすごく弱くて脆い状態で、いつでも絵を描いている。お願いだから、離れていかないで。嫌いにならないで。子どもよりも恐がりな自分がちいちゃく、確実に居て、その声がずっと響いてる。
それはすべて曝け出している証拠と思いたい。
絵を、描いてる。真摯に。絵と自分とにものすごく、さらの状態で向き合ってると思ってる。
静かに、ひとりで描くのは、記憶にない時から好きで仕方がない。
きっと、一生こうして絵を描くだろうなと思う。
来年はどんな年になるんだろうなあ。
いいこともそうでないこともあるだろうけど、
変わらず健やかに生きていたい。
もう悲しいことをお守りに生きなくていいように。
みんなが。
これまでよりもやるべきことが増えて時間が足りない日が続くけど、会いたいひとには会いに行くし、できれば全員救いたい。
来年のカレンダーの絵を描いていたら気持ちは完全に大晦日になってしまいましたが、今年もまだあと1ヶ月半ほどありますね。
来月の頭には個展が控えておりますので。
2日間しか開催しませんが、気が向いたらお越しください。わたしの絵はとても良いですよ。
2023.11.19.sun. nomura elico