行雲流水という生き方は実践できるのか?
「行雲流水」(こううんりゅうすい)
動く雲のように、川の水の流れのように、その時の流れに任せて逆らわず、自然に過ごしていくこと。
これが私の理想の生き方だ。しかしながら、人生や社会には、抗わなきゃならない壁や人がたくさん、ほんとにたっくさんある。その度に行雲流水で言う自然とは真逆な行動や意識をしなければならなくなるのだ。
では、どうしたらいいのか?2つほど策がある。
1、他人に無関心になって過ごす。これでイライラはほぼなくなるが、基本的に自分中心に生きることになるため、他人からも距離を置かれ、認められることも少なくなり、自己肯定感はなくなる。
2、ものすごく周りを気にして生きる。今流れている空気を読めるだけ読み、大局を掴んでその流れに乗る。決して逆らわず、他人の意見をなんとか肯定していく。かなりギリな悪い手にも、いいところを見つけて肯定!どこにも軋轢は生まれない。物事は自然に流れると言う寸法である。
1は楽だけど寂しい。2はすっごく疲れる。。。。。。。ということは、ダメじゃん!!行雲流水は理想論か。どうにかならないものか。言い換えるとがっつかない前向きと言うことなんだけどね。
前向き!というとこんな感じか。。
松岡修造!レッツポジティブ!それはベッキーだったな、すまんすまん全然前向きじゃないわ。毎日ポジティブ!あ、ノンスタイル井上か。ある意味前向きですな、人間は顔じゃないけど、顔はいい方がいいという現実は、50年近く生きてきてすでにわかっている真理である。
そして松岡修造。熱い、暑すぎる。そして多分モラハラなんだろうなと。。熱いの裏返し、空気を読めない男。誰かを傷つけて生きている(個人の感想です)。
何を言っているんだ俺は。前向きの話だったな。つまり、おっととっと夏だぜみたいな常夏の前向きは、いらないのだ。あくまで後ろ向きな前向き。3歩進んで2歩下がる的なチーター。前を向いているんだけど、顔は風見鶏でできている。その時の雰囲気を読んで素直に従う。調整する。モーゼのように道を作る。みんなを嫌な気持ちにさせないで、且つ導くと言う難役。
強引なやり方は今の世では通用しない。森喜朗はもう終わったのだ(個人の感想です)。今は周りを見て動き、建設的な意見をかわせるコミュニティが大切なのだ。その中でふんわりと意見を吸い上げて、ボールの中でぐるぐると取りまとめて最後にポンと虹色の珠を取り出せればそれでいい。
この世の中だからこそ、行雲流水という考えは大事なのかもしれないよ
うな気がする。ただ意識していくことだけでいいのかも。大きな大きな
うみの中でも流れに逆らわず、生きていくことに。歩いているみちにう
んこが落ちていても、あ、犬我慢できんかったんやな、と。何だお前、
理系の頭ないなー、といわれても、さーせん、文系寄りなもんで!と余
裕で軽口を返せる軽やかさ。前におっそい車がいても、こう言う運命
(うんめい)だったんだと。足を滑らせて崖から落ちそうになっても、お
す!ありがとやんしたーという俯瞰的な余裕。競馬が外れて大負けして
いても、次のステージに行く時が来てるんだぜ、と。
これらを乗り越えた時、人間レベルがテレレレッテッテッテー(古!)と上がるのだと思えば良い。
今まさにその時が来ている。行雲流水を実践するときは、まさに今なのだ。