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【三国志の話】【将棋の話】三国志が語源のことばと、将棋との関係

 三国志について少し興味のある人であれば、「三顧の礼さんこのれい」や「泣いて馬謖ばしょくを斬る」が、蜀の丞相じょうしょう諸葛亮しょかつりょうに関係することばであることを、ご存じかと思います。

 もう少し三国志からことばを探していくと、将棋に関係のある言葉がいくつか出てきたので、関連づけてご紹介したいと思います。


はじめに

 一般によく使われる「苦肉の策」は、本来の「苦肉の計」とは違う意味で使われている上に、「苦肉の計」そのものも『三国志演義』での創作です。

 将棋では不利を挽回するための捨て身の勝負手のことを、このことばを使って表現することはありますが、今回取り上げることは控えました。

白眉

馬良ばりょう187-222
 字は季常、襄陽郡宜城の人。兄弟五人とも逸材のほまれが高かったが、なかでも馬良はもっともすぐれ、眉が白かったところから、「白眉」と称された。劉備に仕えて侍中に昇り、将来を嘱望されたが、夷陵いりょうの戦いで死んだ。

『三国志全人名事典』 角川書店

 諸葛亮に斬られた馬謖の兄です。「白眉」は人に限らず、多くの中でもっとも優れたものの意味で使われます。

 藤井聡太6冠(2023/4/1現在)は、特に内容のよい一局(第30期竜王戦第四局)を解説したときに、「白眉(はくび)の一局」と表現しました。

破竹の勢い

 三国時代の末期、晋が呉を攻めているときに周囲から出た慎重論を、杜預どよ(222-284)が退けます。そのときに「竹を割くように」と主張したことから、この故事が生まれました。

 太康元年(280)に(杜預が)羊祜ようこの後任となり、征南大将軍として呉を征伐。
(中略)
 杜預は「今、軍の威勢は大いに振るい、たとえるならば竹を割くようなもの」と答えた。
 竹は最初の節が割れると、あとは簡単に割れてしまうので、これが「破竹の勢い」の故事となった。

『三国志武将事典』 新紀元社

 上の例でも登場した藤井聡太6冠こそ、まさに「破竹の勢い」そのものと言ってよいでしょう。
 2020年7月に最初のタイトル「棋聖」を獲得してから、本記事執筆時点ではまだタイトル戦で敗退したことがありません。

登龍門

 このことばの語源となった李膺りよう(110-169)は、厳密には後漢中期の人であり、三国志好きの間でも知名度は高くありません。
 しかし、後漢中期からの宦官(かんがん)と官僚の暗闘を丁寧に書いている「宮城谷三国志」には登場します。

筆者補足:東京都知事に相当する司隷校尉(しれいこうい)となった李膺は、宦官張譲(ちょうじょう)の弟である野王県令張朔(ちょうさく)の不正と残虐行為を取り調べて死刑にします。

 法をふみにじっている宦官を嫌い憎む者は多く、その宦官をふるえあがらせた李膺の名は天下に知られたといってよい。
 天下の士は争うように李膺に面会を求めた。だが気格の高い李膺は、これはとおもう人物にしか会わなかったので、李膺に認められて出入りがゆるされた者は、「龍門に登った」と、羨望をもってたたえられた。
 河水の上流にある龍門まで登った鯉は龍になるという伝説があり、無名の士が李膺に認められたことで有名になることを、「登龍門」と、呼んだのである。

宮城谷昌光『三国志』第二巻

 これも将棋界で喩えれば、そもそも奨励会の仕組みそのものが登龍門と言えます。
 2023年2月に、戦後初めて奨励会を経験しない棋士、小山怜央四段(2023/4/1現在)が誕生しました。

 小山さんはこれまで奨励会に入るチャンスを何度も逃してきました。奨励会に入ることそのものが難しいということですが、さらにそこを勝ち抜くということは本当に大変なことです。

 その厳しさについては、「聖の青春」の著者、大崎善生氏の小説「将棋の子」のテーマとなっています。


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