【展覧会】GENKYO 横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は?|東京都現代美術館/いつだってサイケデリック
先週に引き続き、今週も美術館へ。今日は、タイトルの通り、東京都現代美術館へ。
もちろん、初めて行く場所。直前までどこにあるのかさえ知らなかった。半蔵門線で「清澄白河」なるおそらく日本で一番透明感があるだろう駅名を冠した駅で下車。そこから徒歩10分程度。本日はあいにくの雨だったが、まあ、こんな日もあるだろう。
東京都現代美術館に着。本日はこれを見に来た。
GENKYO 横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は?
先週のイサム・ノグチに続いて美術館奇譚。もちろん数週間前まで僕はこの人の名前すら聞いたこともなかったレベルだ。
なぜ今回わざわざ横尾忠則なる人物の特別展に行こうと思ったかというと、先週のイサム・ノグチの体験があったからだ。美術館に行き、何かの作品を見るという行為自体に魅了されたのかもしれない。正直そんなに高尚な理由はないが、どこか行けるところがないか調べていた中で、たまたま見つけたのが本展覧会だったというわけだ。
個人的に何の根拠もないが、歴史系の展示よりも、現代アートに近い作品の方が好みではある。その理由は、おそらく浅はかなものに過ぎない。でも、それもプログラムの楽しみ方の一つであるはずだ。きっとそうだ。そうに違いない。
ということで、簡単な感想。写真NGだったので、言葉のみ。
サイケデリック。一言でいうと、そんな感じの作品が多い。というか、どの作品もサイケデリックだ。
一応、不安になったので、サイケデリックの意味を調べておいた。
幻覚剤によってもたらされる幻覚を想起させるさま。派手な色や音楽などに対して言う。
とのこと。うん、間違ってない。とにかくこの特別点は作品数がすごい。ど素人の僕が見終わるのに2時間程度掛った。それなりにじっくりと見たので、時間が掛ったのかもしれないが、正直十分すぎるくらいの満足感。
1Fと3Fの2フロア構成。それぞれの展示郡にタイトルがついている。
まずは、「神話の森へ」。1980年代の作品が多かったように思う。ここで初めて僕はこの人の作品を見ることになる。なんかアートだな~、という塩っぽい感想を抱いたというのが本音。
キャンバスに鏡が張ってあったり、赤い電飾がついていたりとただの絵画ではなく、いろいろとファンキーだ。そんな装飾がなくたって、絵としてもなかなか強烈。何が強烈かというのが言語化できないもどかしさ。そのあたりが芸術家の作品たるゆえんなのだろう。
大胆な色使い。ところどころに描かれる人の顔。グロテスクと表現していいのかわからないがとにかく躍動感と勢いを感じる作品の数々。
「神話の森へ」は、とにかくただの絵画ではなく、挑戦的ないろんな装飾を施しているのが印象的だった。
続いて、「多元的宇宙論」。この辺からさらにやばくなる。1990年代の作品が多い。
カンヴァスの上にカンヴァスを張り付けた「カンヴァス・オン・カンヴァス」に始まる、いわゆる「多次元絵画」では、さまざまな源泉から引用されたイメージが、複雑に組み合わされ、コラージュされています。
いったいどうやって作った作品なのか皆目見当がつかなかったけど、上記の「カンヴァス・オン・カンヴァス」はなんかすごい。雑な言い方をするとパッチワークなのだけれど、ただ単に切り貼りしているだけではなくて、もう何から何までごちゃまぜ。テーマなんて全然わからないけど、だからこそ、ずーっと見てしまう。そんな不思議な作品の数々。
タイトルも面白い。
「ミケランジェロと北斎の因果関係」
「すでに真理の探求はこの時から始まっていた」
「私の花が泣くので、私の心は血の涙を流す」
などなど、タイトルが言葉として素晴らしい。作品との因果なんて僕には全くわからないけど、こういう知的な言葉遊び(?)はすごい好きだ。
とにかくごちゃごちゃした作品。いったいどうやってこんなの思いつくんだよ的な作品の数々に引き込まれる。
その後、1960年代の作品「ピンク・ガールズ」とも呼ばれる作品の数々。全面ガラス張りの滝のインスタレーションなどをはさむ。
「地球の中心への旅」、「死者の書」などを経て、1F終了。この時点で正直大満足だが、展示は3Fへ。
まずは、「Y字路にて」。Y字路シリーズなるものがあるらしい。
横尾の代表作「Y字路」シリーズは、子どもの頃にかよった模型屋が取り壊された跡地を撮った写真に、個人的なノスタルジーを超えた普遍性を感じたことをきっかけに生まれました。
昼のY字路。夜のY字路。様々な無数のY字路作品が続く続く。今まで意識してこなかったY字路も、この展覧会を機に、今後は少し立ち止まって見てみるかもしれない。そもそも今僕の記憶にあるY字路がないな。
その後、「終わりなき冒険」、「西脇再訪」、「原郷の森」でフィニッシュ。
最後の「原郷の森」は、比較的最近の作品が多い。ほとんど2020-2021の作品。今なお、めちゃくちゃ書いている。すごい。
最近の絵もサイケデリック感は健在。でも、少し尖がりがなくなってきたようにも素人の僕の目に映った。
簡単にこしらえた程度の知識で恐縮だが、割と年代ごとに作風というか、テーマというか、そういうものの変遷があるらしい。
全体通して。
特徴出来だったのは、目、耳、口。この顔のパーツが作品のいたるところに存在している。時には主役、時には脇役。またある時には大量に。顔自体を作品のいたるところに忍ばせている傾向もあったが、彼にとっての顔、そして、そのパーツには、何か重要な意味があるのだろうか。
そして、滝。滝も作品の至るところに登場していた。こじつけるなら、ほぼすべての作品が滝っぽい。勢いがあって何か強い力がある。抗うことのできない自然の強さと優しさの調和といったような。
そして、ターザン。これもいたるところに登場していた。会場のコメントっぽいところで、ターザンに憧れている的な言葉を見つけた。ターザンが好きなのか。ちょっと滝と近いイメージかもしれない。勢いがあって、力強くて。
と、なんの整理もないまま書き連ねたが、楽しかった。絵画を見るというのも、おそらく大人になってから初めての経験だと思う。
彫刻同様、絵画も意味不明だけど、だからこそ、鑑賞者に問いを与えるのではないだろうか。それこそが鑑賞体験の本質ではなかろうか。
一方、あらゆる表現活動というのは、鑑賞者を意図して作られるものでは決してなく、あくまで内面と向き合った結果を表現しているに過ぎない。小説も彫刻も絵画も。
自分をさらけ出す。社会では恥ずかしいと言われるそういった行為を表現者たちはやってのける。鑑賞者はそういった表現されたもの見て、安心するのではないだろうか。自分の内面に飼っているキラキラしたものやドロドロしたものとの共通点を見つけ出し、そこに共感している。
そんなことを考えた、横尾忠則展であった。
しばらくは、美術館巡りに嵌りそうだ。