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若手大学教員として感じる日本の大学教育の問題点

はじめに

私は普段、日本の大学の助教として働いています。

博士号を取得するまで、長らく学生だったわけですが、私は博士課程に進学する程度には、モチベーションの高い真面目な学生でした。

私の周りも、比較的真面目な学生ばかりでした。

なので、むしろ学生時代は弱い立場にある学生が窮屈な思いをするエピソードばかりよく耳にしていました。

そのような話を聞くたびに、
「なんでそんなに学生を下に見るんだろう。」
「もっとちゃんと先生が説明したら、絶対この子だって理解できるのに」
というように学生目線で、なんて学生は立場が弱いのだろうと感じていました。

しかし、教員となり、下っ端といえども教員という形で組織運営を行ったり、学生と関わったりすると見られ方も変わりますし、見える景色が変わってきました

本当に様々な学生がいるのです

下記は、私が大学教員になって感じるもやもやを吐き出しましたので、まとまっていない私の偏った意見です



大学教員として感じる日本の大学教育の問題点

(1)高校生のときの学力がマックス?

冷静に考えて、18歳前後の高校生レベルの学力競争の結果が後の人生に強く強く響くのはおかしくないでしょうか?

しかも、その「高校生レベルの学力」を測るものも、予備校や塾などを通じて行った特殊な訓練の成果です。
高校教育の教科書の内容に対して、受験、特に難関大学で出題される入試の問題のレベルは高すぎます

「受験」が完全にビジネスになっており、その対策メソッドが充実しているので、年々その問題の難易度を上げる必要があるというのが背景にあると思います

個人的には、「あなたの夢を応援します!」という名目の受験ビジネスを見るのがもやもやするようになりました。

受験というのは、既存の知識を学んで、人間に順位をつけているだけで、新しい知識やイノーベションなど何も生み出していません。(詳しくは下記)



その一方で、大学のテストは、大学の教科書レベルの内容のものばかりです

(そして入試の成績と授業の成績に対応関係があるかというとそうでもない気がします)

私が思うのは、知識というのは積み上げられていくものであり、学びつづけないと頭は悪くなるということです

ゆえに、大学入試時だけのことを切り取るのは違和感です


(2)大学で受けた教育の内容が評価されづらい

日本の大学は入るのは難しいですが、出るのは簡単というイメージがあると思います。
また、就活でも「大学名」を確認します。

「大学名」がその人を評価する指標として社会全体として受け入れられています
そして、学生も「大学名」が重要なのだとわかっています

つまり、大学で受けた教育の内容が評価されていないのです
どうせたいしたとを勉強していないということになっています。

大学で教育行う者としては、この社会構造はもやもやします。

「就職するために勉強しているわけではない、自分を高めるために大学で勉強するのだ」とは思うのですが、このような構造であることは学生や教員のモチベーションに実際影響するように思います。


(3)不真面目な学生が受ける不利益が少ない?

不真面目な学生が受ける損失がかなり少ないように感じます。
特に理系学生の研究室生活についてです。

学部の授業の単位取得については、本人がさぼれば単位を取得できない、卒業できないという損失が基本的には存在します。

しかし、研究室生活ではそれがかなり薄いです

修士号の取得に必要な「研究成果」の基準というのは曖昧です

そして、教員サイドは研究室生活について不真面目な学生を具体的に罰する方法がないのです

その学生が不真面目であることを第三者に客観的に示すことはよっぽどでないと困難です

学位取得後や博士課程の学生であれば、比較的にその成果を客観的に把握できますが、研究室に入って2,3年目の学生は

・たまたま与えられたテーマが難しかっただけかもしれない
・たまたま成果を得るまでに数年かかるテーマだった
・たまたま授業が忙しかった
・本人の体調の問題かもしれない
・本人は一生懸命試行錯誤しているかもしれない

ということで、非常に難しいです
たしかに上記のことは、割とおこります


ただ、近くにいる人は実際がどうかわかりますよね

しかし(私はそういう引き出しはないですが)、そのいう学生に厳しく接するとパワハラ、アカハラになりうります

また、その学生に厳しく接したとしても結局最後まで面倒を見るのは直接指導する教員です。

やる気のある学生だけが一生懸命実験をするという環境になりうるのが、もやもやします。

学生といえども、もう18歳を超えた大人ですので、「良いことも悪いことも、自分の行動は時間がかかっても自分に返ってくるものだ」ということを念頭に、学生とは接していくしかないのかなとも思います


外国に来て改めて実感。


海外の学生はリラックスしている雰囲気はありますが、「やはり自分の良い行動も悪い行動も自分に報いる」という環境が整っていると感じました。

学問に対する門が広く開かれていて、ただし卒業するのは難しいというシステムは、合理的だなと思います。

また、「博士号」の価値が受け入れられていることもいいなと思います

学位取得のために必要な博士課程の研究は、新しいものを生み出す営みです

複雑化させた問題(ただし高校の知識で解ける)を解く訓練を行うよりは、社会にプラスの作用を与えるはずです

入試が難しい大学に合格したことがあることが「高学歴」ではなく、上位の学位、つまり博士の学位を取得した人が「高学歴」と広く受け入れられるといいなと思います


いっそAO入試でもいいんじゃないか?


また、個人的な感覚としては、日本ではあまりにも高校生の段階で大学で学びたいことを考えていない気がしました。

(たまたま私が話した一部の人だけだとよいのですが)、みんなが行くから難関大学を目指し、学部・学科の名前の文字の印象で進路を決めている学生がいるのです

また、受験はあまりにも加熱しすぎではないですか?


ですので、AO入試もきっと課題はあると思いますが、いっそどんどん導入していいと思います。

大学で学びたい内容について考えずにAO入試を突破するのは困難でしょう

個人的には、AO入試というのは、会社の入社面接のようなものを大学で行っているようなシステムなのかなという印象です

少しずつ導入が進む流れはあるようですが、難関大学を卒業したという経歴によって尊敬の念を得ている人たちが社会において意思決定を行っているので、現状の入試システムが激変するとまではいかないでしょう

AO入試のような制度が導入されて、入試難関大学の「入試の難関さ」が正当に評価されないと損失を被る人もたくさんいるからです。

あのとき、あれだけ努力したのに!となるのは理解はできます

ただ結局、一個人としてはどんな人と一緒に研究したいかというと
「高校生のときの高校レベルの内容のテストで高得点が取れた学生」
ではなく
「研究へのモチベーションが高い学生」
な気もします

もちろん、基礎的な学力がある学生は研究者としても優秀な人が多いので、両方兼ね備えていると素晴らしいです。


ただ結局、研究室に入ったときは全員が初心者です
実際に、手を動かしてみないとわからないこと、染み込まない知識は無数にあります

共通試験レベルの学力は確認したうえでの、
「研究へのモチベーションが高い学生」を見出すためのAO入試。

AO入試が100%になってまうと、賛成できないかもしれませんが、何割かをこのような形で採用するのは、私は現時点でいいなと思っています。





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