オンラインサロンは宗教か_

オンラインサロンから考える宗教とは何か

今日は少し趣旨の違う投稿になります。
昨年ブログで書いたものを編集していますので悪しからず。
教育とは少しずれるかもしれませんが、興味があれば一読ください。

みなさんオンラインサロンという言葉をご存知でしょうか?
サロンという言葉は昔からある言葉で、意味は以下の通りになります。

本来は、客間を意味するフランス語で、イタリアのサローネsaloneから転化したもの。歴史的には、サロンとは、貴族やブルジョアの夫人が日を定めて客間を開放し、同好の人々を招き、文学・芸術・学問その他の文化全般について、自由に談話を楽しむ社交界の風習をいう。[福井芳男]
(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説, https://kotobank.jp/word/サロン%28文化%29-1539781)

つまり文化人のたまり場であり、私塾のようなものです。
日本では江戸時代以降盛んとなり、寺子屋や藩校などの公教育とは別に、ある専門的な学問や技術を学ぶために集まった組織になります。

日本に現存する最大のサロンは福沢諭吉の慶應義塾ですね。
現在は大学としての体を取っていますが、元々は塾とあるように私塾から始まったサロンでした。

さてそんなサロンですが、最近(といっても数年以上前からですが)オンライン上で同様に私塾的な活動が行われるオンラインサロンが広まってきています。

有名なところでいうと以下のようなものがあります。

『西野亮廣エンタメ研究所』(キングコング 西野亮廣)
『箕輪編集室』(編集者 箕輪厚介)
『堀江貴文イノベーション大学』(実業家 堀江貴文)
『PROGRESS』(オリエンタルラジオ 中田敦彦)
『落合陽一塾』(メデイアアーティスト 落合陽一)

などが挙げられます。
わかる人ならわかると思いますが非常に個性的なメンバーですね。

そしてなぜ今回この話題をあげたかというと、NewsPicks(ソーシャル経済メディア)内の「The UPDATE」という討論番組においてオンラインサロンについての議論があったためです。

番組の司会である古坂大魔王さんや箕輪厚介さんとゲストの中田敦彦さん、西野亮廣さんらによるサロンオーナーとサロンを知らない人との議論が非常に盛り上がっていました。

特にオンラインサロンに対するよくある偏見「宗教っぽい」や「胡散臭い」という意見に対しての個々人の見解が興味深かったです。

また気になって調べていると落合陽一×箕輪厚介(幻冬舎)【後編】「オンラインサロンは宗教か?」という記事も見つけました。
今回の記事を書く上でも非常に参考とさせていただきました。

そこで今回はオンラインサロンに感じる宗教感を切り口に、宗教について考えていきたいと思います。

なぜオンラインサロンは宗教に見えるのか?

オンラインサロンはカリスマ性のある個人に引かれた人たちが、お金を払ってサロンに属するという形を取っています。
つまり西野さんのサロンには西野さんに、箕輪さんのサロンには箕輪さんにお金を払って仲間に入れてもらうという形です。

サロン内で何をしているかは外からは見えづらく、サロンに属している人たちは熱狂的にサロンオーナーに付き従います。
そして大きなサロンのオーナーほど「炎上」発言が多く、「常識人」には理解できない考えや行動力を持っています。

彼ら彼女らのことを知らない人やオンラインサロンについて明るくない人にとっては、「何かわからない怪しい集団」に見えてしまいますね。
そして日本人はこの「何かわからない怪しい集団」を「(カルト)宗教」という言葉で片付けてしまいがちです。

つまりサロンオーナーは「教祖」で、メンバーは「信者」、サロンの月謝は「お布施」、オーナーの本は「経典」、言葉は「教義」、オフ会は「集会」として置き換えられてしまうのです。

教祖、信者、お布施、経典、教義、集会……もう完全に怪しく見えてしまいますよね。笑
ではなぜこれらのワードを見ると、あるいは「宗教」という言葉を聞くと怪しさを感じてしまうのでしょうか。

「宗教」に怪しさを感じる要因

私はこれには2つの要因があると考え、1つは戦後GHQによって取られた神道と政治を分離する「政教分離」とその教育政策、もう1つに1995年のオウム真理教による「地下鉄サリン事件」があげられます。

GHQの政策
1つ目のGHQによる教育政策ですが、GHQは戦後日本を民主化するために天皇主権の憲法を廃止し、国民主権の憲法への変更を命じます。
その際戦前の憲法(と天皇制)に結びついていた神道と政治の結びつきを切り離す「政教分離」を憲法に盛り込みました。

そしてこのことは教育改革にも影響し、戦後教育ではいわゆる「自虐史観」が盛り込まれ、神道を含む宗教に関する教育は公立の教育機関ではタブーとなりました。

これにより宗教に関する教育は家庭や私学に限られるようになったため、日本人の宗教意識の希薄化につながりました。

※非常に主観かつ割愛して書いているため、教育史を学ばれる方はご自分でしっかり学んでください。

地下鉄サリン事件
そして2つ目にオウム真理教による地下鉄サリン事件が挙げられます。
これが日本人の宗教に対する見方を決定的に決めつけたといっても過言ではないでしょう。

宗教意識の薄れた日本人の感覚に、衝撃的な事件が上書きされたことで「宗教=危険なもの」という感覚が根付きました。

大きくこの2つの要因により、現代の日本人は宗教に対する怪しい・危ないといった感覚を持つようになったと思います。

海外の宗教観

では日本以外ではどうでしょうか?
ヨーロッパやアメリカでは宗派の違いはあれどキリスト教が主流であり、政治とも密接に結びついています。

例えばアメリカでは大統領がプロテスタントかカトリックかという信仰の違いは選挙でも非常に重要な点であり、カトリックであるジョン・F・ケネディが大統領選に出た際は注目されました。

他にも中東や東南アジアではイスラーム教が国教の国が多く生活の中に密接に結びついています。
礼拝やラマダン(断食)などは馴染みのない私たちでも知っている習慣だと思います。またタイなどの仏教国では僧侶は非常に尊敬されています。

インドは言わずと知れたヒンドゥー教国ですが、歴史を振り返れば様々な宗教が受け入れられてきました。
世界史でやる範囲だけでもバラモン教に仏教、ジャイナ教、シク教、ヒンドゥー教にイスラーム教と様々な変遷をたどり現代に至ります。
現在にも残るカースト制はバラモン教の名残ですし、インド人でイメージするターバンはシク教の習慣です。

このように世界のほとんどの国家や地域で宗教は生活習慣の中に取り入れられ、文化として継承され、時には政治的に利用されて、時には国民を一致団結させました。

日本にも仏教や神道の習慣は散見されます。
わかりやすいところでも初詣や節分、建国記念の日は神道に基づきますし、お盆やお葬式(仏式)は仏教に基づきます。

このように一年の行事の中には宗教に基づくものが多いです。
行事には参加していてもほとんど宗教色を感じていないとは思いますが。
しかしそれはある意味で日本らしくていいとも感じます。
神道は八百万の神様ですからね。

宗教とは何か?

結論からいうと、私は宗教とは「共同体をまとめる精神性の共有ツール」だと考えています。
社会における宗教の担う役割には、「倫理観の共有」「ルールの共有」「価値観の共有」「行動様式の共有」などがあげられます。

人間はどこの誰とも知らない人を簡単に信用することはできません。
つまり何かを共有し、相手を信用できなければ社会を築くことができません。
例えば家族であれば血縁の共有によって、友人であれば時間や体験の共有によって信用が担保されています。

しかし共同体が大きくなれば大きくなるほど経験を共有するのは難しくなります。
そこで「信じるもの」を共有することで、知らない人同士でも信用できるような仕組みを社会に組みこくことができます。

キングコングの西野さんは「The UPDATE」の中でこれを「物語の共有」とおっしゃっています。
つまり同じ世界観、同じ文脈、同じ理想を共有することによって共同体は1つの方向に向かうことができるということです。

ディズニーは一種の宗教である

わかりやすい例でいうとディズニーがそうではないでしょうか。
ディズニーランドを一言で表せと言われると、多くの人が「夢の国」と答えると思います。

ディズニーランドではゲスト(来園者)に対して、非日常な体験=夢のような体験を提供しています。
その思想はパークの設計からキャスト(従業員)の接客、広告などのマーケテイングなどに徹底されており、私たちはディズニーランド=夢の国というイメージを共有しています。

ウォルト・ディズニーが描いた物語を作品やパークを通して私たちが共有することでディズニーを通した文化が出来上がります。

映画やパーク(経典や集会)を通じて好きになったファン(信者)が入園料やグッズ(お布施)を払うことで企業(教団)にお金が入ります。
そして企業は新たな作品やライドを作ったり、イベントを催すことによって来園者を引きつけつつ拡大していきます。

これはディズニーに限った話ではなく、例えばアイドルグループやアニメ作品、企業などもこれに当てはまると思います。
Appleの製品が大好きな人のことを「Apple信者」といったり、好きなグループや作品にお金を使うことを「お布施」といったりするのは非常に言い得て妙だと思います。

もちろんこれらの組織は国家を指導するためではなく資本主義的な思想に基づいて、つまりお金儲けのためにやっているわけですが。

宗教とは世界観のこと

先にも述べたように、宗教は共同体をまとめるために政治的に利用されてきました。(ここでの利用というのは国家を形成するための、いわば自己防衛のための手段として用いたいう意味ですので悪しからず。)

古くは古代エジプトやメソポタミアの神権政治に始まり、普遍的に存在する自然が信仰されました。一方で古代ギリシアでは神々は人間性と結び付けられ、人間味を帯びた神々の物語が親しみやすく語り継がれてきました。

ローマ帝国はキリスト教を国教と定めたのちに東西に分裂。その後ゲルマン人と結びつき、ローマ人とゲルマン人の文化が融合していきます。その2つの民族が1つの文化としてまとまる際に役立ったのが、キリスト教という同じ精神的な背景の共有でした。そして長らくの間、ヨーロッパにおいて神の権威は教皇や国王らによって利用されてきました。

日本では天皇の神性はアマテラスの血統に結び付けられており、これらの物語は『古事記』や『日本書紀』にまとめられ、神道という形で現代に継承されてきました。

ミッキーマウスは列車で落ち込んでいたウォルト・ディズニーと偶然出会い、励まして俳優にスカウトされるところから物語が始まりますしね。

つまり宗教とは、この世界はどのように成り立ち、どのような歴史を経て今に至るかという物語とそれに付随する決まりのことです。
それらを信仰して実行することを宗教というのだと思います。

そしてこれこそが西野さんのいうところの「物語の共有」なのだと思います。

オンラインサロンは宗教か?

ここまでの内容を理解していただけたならわかると思いますが、オンラインサロンは間違いなく宗教ですね。
しかし日本人がイメージするカルト的な怪しさを含む宗教ではなく、物語や理念を共有し多くの人がある方向へ進むというポジティブな意味での宗教です。

いわば高校生が文化祭で目標を立てて、それに向かって突き進んでいるイメージです。サロンオーナーは理想を語りそれを実行することで物語を作り出し、その文脈に惹かれた人たちが一緒になって行動を起こす。それだけのことです。

落合陽一×箕輪厚介(幻冬舎)【後編】「オンラインサロンは宗教か?」の記事の中にもありましたが、私たち日本人は世界観を共有し一体感を生み出すポジティブな意味での「宗教」と、それを利用して悪事や私利私欲に走るネガティブな意味での「宗教」を混同して考えてしまっています。

箕輪 「宗教じゃん」っていうツッコミが「やばい」っていう意味なのは本来、おかしいもんね。

落合 おかしい。「宗教じゃん」って言われたら、欧米の人々は「完成されたブランドですね」としかとらえられないと思うよ。カルティエやエルメスは宗教のような永続性と文化を持ちたいはずだもん。

箕輪 普通は「宗教じゃん」って言われたら、「宗教ってほどではございません」ってなるはずだもんね。それが、日本だと「怪しいもの」っていう意味になってる。

落合 言葉が汚されちゃったってことなんだよ。だから「宗教」に該当するいい言葉をつくらなければ、日本人はブランド価値なんかつくれない。
(前川仁之,落合陽一×箕輪厚介(幻冬舎)【後編】「オンラインサロンは宗教か?」, 週プレNEWS)

落合さんのいうとおり、新しい言葉を当てはめることによって代替する概念とイメージを共有していく必要があるのかもしれません。

まとめ

オンラインサロンが宗教に思えるのは、オーナーのカリスマ性やサロンの不透明性、一般の感覚からは理解できない行動への異質感が起因していると思います。

しかし宗教というものの本質を考えれば、オンラインサロンは宗教の要素を兼ね備えており、そしてそれは何も問題ないように思えます。

戦後日本の歴史的・社会的な変遷考えれば日本人が宗教アレルギーになってしまうのは最もだと思います。
ですが世界的に見れば宗教を作れるというのは世界観(あるいは物語)を作り出すということなので尊敬される価値を作り出していると考えられます。

ですので本質としての宗教ではなくイメージとしての宗教しか理解できない人にとってはオンラインサロンに忌避感を感じるものだと思います。

今後世代が入れ替わり宗教に対するイメージが社会的に変化すれば、このような忌避感もなくなり、オンラインサロンのような個人の世界観に共感して行動することが当たり前になるのかもしれませんね。

最後になりますが、悪意を持って宗教を利用し、信仰の言葉を隠れ蓑に法を犯すような団体も確かに存在します。
これらのような団体に関しては私のいうポジティブな宗教の限りではありませんので、ご自身で判断して自己防衛されるようお願いします。

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