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仮初の安全と声色の呪縛_10

(前話はこちらから)


 祖母が入院をしても、予備校は休みにならない。当然だ。昨日は祖母のことが気になり過ぎてあまり眠れなかった。ただ、よく眠ったからといって、数学の問題が解けるようになるわけではない。僕の数学レベルではまだ、自分のコンディションで点数が左右されることはない。何度も数学の問題で挫折をすることで負け癖とは違うのだが、間違える事への抵抗感がなくなった。むしろ間違ってから先生の解法を見ることが楽しくなってきた。まるで物語を読んでいるような感覚になる。カオスのように思える世界が公式や計算を通して綺麗に整理されていき、最終的に小学生でも知っているような数値になる。その一連の流れが、汚い部屋を掃除した時の気持ちに近いことに気がついた。数学は美しい学問と言われているらしいが、その片鱗を少しだけ感じることができているような気がする。
 夏期講習に通うことによって、僕の数学能力はノビシロしかないと分かったことも素晴らしいが、数学を楽しいと思える気持ちがあることが何より大きな収穫だった。祖母のことが頭から離れることはなかったが、数学の問題を解いている時だけは安定した心を保つことができた。数学は自分だけの世界に閉じこもることができるから。
 
 
 今日は、太田に会いたいと思っている。酷い事を言って、無言で立ち去ってしまった事をどうしても謝りたかったのだ。あとは、改めて感謝を伝えたい。
 数学が多少できて、天狗だった僕の鼻をへし折ってくれたのは太田。問題を解くことではなく、プロセスを楽しむことを教えてくれたのも太田だと気がついた。そんな太田に対して僕は、自分の意見ではなく隆太と淳の意見を借りて、思ってもいない事を言ってしまった。ちゃんと自分の言葉で太田と向き合うべきだったのだ。多分だけど、太田は僕の借りてきた言葉に気がついて失望していたから、あんなにも悲しい声を出したのだと思う。

 しかし、その日は太田を予備校で見つけることができなかった。太田が履修している授業は、隣に座る機会が多かったので何となく把握していたのだが、どの授業にも太田の姿はなかった。僕は心配になり、受付の人に太田について確認しようとしたが、どう聞けば情報を引き出せるかが思いつかなった。こういう時は隆太に相談するのが一番だ。

「受付の人に知りたい情報を聞くにはどうしたらよいかな」
 僕は隆太にメッセージを送る。隆太は暇があれば携帯で彼女と連絡をしているので、送った瞬間に既読がついた。
「普通に聞けばよいだろ。と返したいとこだけど慶太がこんな連絡をしてくるってことは…。さては、太田さん関連だな」
 本当にこの勘の鋭さはすごい。こんなどうでもよい会話で能力を使うのではなく、勉強に使えばよいのにと思ってしまう。僕の意図を簡単に見抜かれて悔しかったので、違うと言いたい気持ちだったが我慢した。
「そうなんだよ。太田と話しをしたかったんだけど、今日の授業で会えなくて…。受付の人なら何か情報を持っているかなと思って隆太に連絡した」
「やっぱりか。プライベートの情報を手に入れるのはけっこう大変だと思うな。俺からできるアドバイスとしては、今日は諦めた方がよいということくらいかな」
 確かにそうだ。よく考えれば、一日休んだくらいで自分の情報を開示されたらたまったものではない。謝るのは早い方が良いことは間違いないが、その発端を作ったのも僕なのだ。ここは隆太のアドバイスに従い、予備校では特にアクションは起こさずに祖母がいる病人に向かうことにした。
「隆太、ありがとう。今日は諦めることにするよ」
 そう送ると猫が何回も頷くスタンプが送られてきた。
 
 
 病院に到着すると祖母は眠っていた。そして母もぐったりとしていた。どうやらたくさんの検査を一日で行ったようだ。母も祖母と一緒に病院内を行ったり来たりし、各検査の目的や実施する内容について説明を受けていたようだ。祖母の検査中に説明で分からなかった用語、どのような病気が見つかるかも調べていたようで、携帯に並ぶその怖い病名の数々にまだ確定していないにも関わらず、母は気持ちが落ち込んでしまい、すっかりまいっていた。
 病室はとても静かだった。こんな時にどんな言葉をかけてよいか分からない僕は、窓の外をボーっと眺めていた。祖母の病室からは病院の入り口がよく見えた。様々な人たちが病院に来て、そして帰っていくものだと思った。母や僕のように入院のお見舞いで来ている人もいれば、自分自身の通院のための人もいる。みんな誰かの健康を願っている。そして多くの人が不安な表情をしている。たまにいる明るい表情の人は、おそらく退院できた人だろう。
 何十分か人の動きを見ていると、太田にそっくりの人が目についた。隣には母親のような人もいる。僕は、急いで病院の入り口まで走った。自分がこんなに早く階段を降りられることを初めて知った。祖母の病室は5階にあったが、あっという間に入り口まで辿り着くことができた。だが、二人の姿はもう見当たらなかった。僕は駐車場から出てくる車を注意深く観察した。3台目の車に太田が乗っていた。祖母の部屋から見た時は確信がなかったが、予備校の隣に座っている太田であると確信を持てた。太田はなぜ病院にいたのだろうか。

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