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仮初の安全と声色の呪縛_5

(前話はこちらから)


 高校2年生、祖母の家にて。
 祖母の家には昔ながらの縁側がある。僕はそこに座って麦茶を飲みながらゆっくりと話をする時間が好きだ。足をぶらぶらとさせながら、おばあちゃんの知恵袋的な話を聞く。『荒波のように一気にいくつかの現実が僕に打ち寄せていること』『隆太に気を使いすぎていると言われたこと』。たった2つの事だが、僕の小さなキャパでは抱えきれない問題が、頭にずっとあることが辛かった。こんな時には祖母に会うに限る。海は話を聞いてくれるが、アドバイスはくれない。祖母は麦茶やお菓子をくれるし、意見もくれる。
「それは大変だったわね。せつはああ見えて頑固だから、おばあちゃんも苦労したのよ」
 せつとは僕の母の名前である。旧姓『日月せつ』そして祖母の名前は『日月ふみ』と言う。妹もこの平仮名2文字の法則に従い、『早坂ゆき』という名前が付けられた。ちなみに僕の慶太は祖父の龍太から一文字もらっているのだ。早坂という名字も気に入っているが、日月という名字はやっぱりカッコよくて羨ましい。
「慶ちゃん、まずは目を閉じて深呼吸してみたら。久しぶりに縁側に座ったことだし。おばあちゃんは眠くならなければ、いくらでも時間があるからゆっくりお話しましょう」
 祖母の声はいつ聞いても一定のトーンに保たれている。嘘偽りは一切なく、心から声を出しているのだろう。もはやこの領域は女仙なのではないかと考えしまう。でも表情は豊かで話をする時の動きはとてもチャーミングだ。女仙でなければ、妖精か何かの類の可能性も高いと僕は考えている。いつか祖母の真相に辿り着ければ良いのだが。
 僕は祖母に言われた通り目を閉じて深呼吸をしてみた。祖母は僕の呼吸が浅いことに気がついたのだろうか。僕自身は気がついていなかったのだが、こうやって深く息を吸い込むと全身に酸素が行き渡る感覚があった。目の前にある山からは青々とした自然の匂いがして、風に靡く風鈴の音は僕の心を落ち着かせてくれる。僕の心が少しずつ解きほぐされていく。祖母の優しさが、自然を通して僕の体の中に入ってくるような不思議な感覚がある。
「うん。大分良くなったわ。慶ちゃんは小さい時からこの縁側が好きよね。おばあちゃんも大好き。海はないけど、山もあるし風も良く通る。草木が楽しそうに揺れている姿はずっと見ていられるのよね」
 祖母の周りは時間がゆっくりと流れている。自然一つひとつの動きを丁寧に観察して愛でるのだ。僕も祖母に言われた通り、楽しそうに揺れているらしい草木を眺めてみた。いつもは気づかないような、葉っぱの形の違いを確認することができた。
「うん。柔らかい表情になったわね。そろそろせつの話からしましょうか」
 祖母はそんなことを言いながらもゆっくりとお茶を啜っている。僕も祖母にならって麦茶をゆっくりと飲む。別に何を言われている訳ではないのだが、祖母の前だと素直に行動ができるようになる。
「大変だったわね。自分が想像できないことが、一気にたくさんくるなんておばあちゃんには想像もできないわ。だって学校は勝手に通うところが決まっていたし、仕事だって一度もやったことがない。でも家事や育児は得意なのよ。孫の面倒だって見られるんだから」
 祖母はそう言うと笑顔で僕のことを見ながら続ける。
「新聞を読んだりニュースを見たりしても分からないことは分からない。世の中がどう動いているかなんて全然知らない。だから慶ちゃんが羨ましいわ。色々な物を実際に見られるから。今、分からないことでも、いつか体験できる。そうすれば自分のために色々な選択ができるようになるわね」
 僕は静かに頷く。確かに僕は教わっていないから、分からない。だから、選択もできないという気持ちになっていた。でも祖母が言う通り、自分で体験をしようと思えば体験できることはたくさんあるのだ。
「いつも言うけど、おばあちゃんの話は知恵袋なんかじゃなくて想像よ。特に最近は慶ちゃんも大きくなって、おばあちゃんも良く分からないの」
 祖母は笑いながらまたお茶を啜っている。本当に不思議だ。祖母は知らないことでも自分を保ちながら想像することができている。僕は麦茶を飲みながら、また目を閉じてゆっくりと深呼吸をする。さっきよりも、もっと自然を感じることができた。少しだけ想像力も上がったような気がする。
「慶ちゃんは中学2年生くらいから、なんか大人になったわよね。人の話を良く聞くようになったというか。その前は自分のことばかり話していたわ。それはそれで好きだったけど、今の成長した慶ちゃんはもっと好きよ」
 直感的に祖母は、僕の特殊な聴力に気がついているだと思った。それと同時に祖母にも特殊な力があるのではないかと思えてきた。
「私は特殊な力なんてないのよ。ただ、慶ちゃんの成長が嬉しいだけ。良く遊びに来てくれていた時は毎日、少しずつ慶ちゃんが成長する姿を見られて楽しかったわ」
 おそらく祖母は千里眼か何かの力があるのではないかと思ってしまう。家にいながらも色々なことを観察して楽しんでいるのだ。
「人の話をちゃんと聞ける人は、考え方が広くなると思うのよね。気を使いずぎるのは悪いことばかりじゃないと思うから、そんなに気にしなくて良いんじゃないかしら」
 今日は祖母の家に来てよかった。心が洗われたような気がする。僕は自転車に乗って祖母に大きく手を振った。祖母もニコニコしながら僕に手を振ってくれた。

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