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仮初の安全と声色の呪縛_18

(前話はこちらから_18/20)


 珍しく横浜に雪が降った。交通は混乱して電車はいつもより50分近く遅延し、バスは渋滞に巻き込まれると徒歩よりも進行が遅くなるような有様だった。そんな僕も慣れない雪に足を取られて何度も転びそうになった。
 時が流れるにつれて祖母の容態は悪化していた。妹や僕のことはもちろん母のことも認識するのが難しくなっており、極端に口数が少なくなっていた。担当医師の久遠先生や近藤さんが言うには、祖母の目線から見ると知らない人から親しげに声をかけてくるのが恐ろしいのではないかと言っていた。もはや僕たちは、祖母にとってただの他人なのかもしれない。

 病室はみんな静かだった。母も妹も話すべきことが見つからず、ただ祖母を眺めることしかできなかった。もちろん僕もそうだった。
 空間を支配する重苦しい無言を破ってくれたのは、扉から聞こえるノックだった。担当医師の久遠先生が僕らを手招きして、面談室に招待してくれた。祖母の病状について話したいことがあると言われた。妹は聞くのが怖いと言って祖母の病室に残ることになった。
「おばあ様の症状は、ここ数週間でかなり進行しています。記憶も数十年単位で失っていることが予想されます。脳機能の低下が原因です。それに伴う衰弱も激しいです。もってあと数週間、長くとも1ヵ月半くらいかもしれません」
 僕も妹同様に聞きたくない事実だった。祖母が弱っているのは何となく分かっていた。最近は極端に眠っている時間が多くなている。最初は僕が誰かも理解できない状況なのだが、僕が病室の場に馴染んでくるとお礼を伝えようと少しだけ指を動かしてくれる。それが、祖母の精一杯のお礼になってしまっている。
 実感していることを専門家の先生から言われるとやはり堪える。母も下を向いて黙ってしまっている。久遠先生も何と言ったらよいか分からず黙ってしまっている。これに似たような空間と時間を僕は覚えている。三者面談だ。あの時は、母が僕を助けてくれた。今度は僕が母を助ける番だ。


「久遠先生、ありがとうございます。母にとっても僕にとっても、とても辛い事実です。何となく祖母の症状が厳しいことも察しています。祖母から言われたことがあります。『おばちゃんを忘れないでほしい』。そう言っていました。僕はそれをしっかり実行してあげたいと考えています」
 母は驚いた顔で僕を見ていた。母がどういった感情なのかは僕には分からない。ただ、心から出てきた言葉を素直に先生に伝えてみた。
「そうだね。僕が言うのはダメだからここだけの話にしてほしい。医学は万能じゃないから、治せなない人もいるのは事実だ。そして僕が、誰よりも人が亡くなる現場にいるというのは間違いない。そういった観点で言うと慶太君が言ったことは正しい。その人がこの世界にいたことをずっと覚えておいてあげることが大事だと思う。会えない悲しみよりも僕は忘れてしまうことの方が悲しいと思っている」
 母は大きく頷いていた。何かを受け入れたような目をしている。先生の力はすごい。なぜか母が僕の頭を撫でてくれた。無意識のうちに僕は泣いてしまっていたようだ。涙が頬をつたる感覚があった。
「二人とも強いですね。これからのおばあ様との過ごし方は今まで以上に大切にしていきましょう。失った記憶は取り戻せないですが、これらからの記憶はおばあ様と一緒に作っていくことができますから」

 久遠先生の話を聞いた後、僕は祖母の病室には向かわず、病院の喫茶店に向かった。ここのメニューの何が好きとかはないのだが、考えごとをするにはもってこいだ。
「早坂君?」
 声の方を向くと、そこには太田の母親がいた。太田の母親には、僕のような世間知らずでも会釈を上手にさせる不思議な力がある。僕は軽く会釈した。どうやら今日は、太田はいないようだった。僕の目線で太田の母親は察してくれたようだ。
「今日は、綾はいないのよ。もう病院には通わなくてよくなったの。症状に改善が見られているみたいで。相変わらず人によっては緊張してしまうみたいなんだけど、学校、特に予備校には楽しそうに通ってくれているわ。おそらく早坂君のおかげね。ありがとう」
 太田の母親が深々と僕に頭を下げてくれた。大人にそんなお礼をされたことがなかったので動揺してしまった。
「やめてください。僕は何もしていないですから。太田さんの頑張りですから」
 言えることはそれくらいしかなかった。実際、僕は太田には何もしていない。ただ一緒に数学の授業を受けて、祖母の庭に一緒に行ってもらっているだけだ。あとはどうでもよい会話をしているだけ。
「早坂君は優しいのね。綾はいつもあなたに感謝しているのよ」

 病気が治る人もいれば、治らない人もいる。それは先生が言う通り事実だと思う。治る人の希望はとても素敵だし、残りの時間の過ごし方を考えることも僕は素敵だと思う。
 僕は太田の母親に挨拶をして病院を出て、太田に連絡をした。
「太田、明日おばあちゃんの家に一緒に行きたいのだが予定はある」
「明日は予備校のはずだけど」
「そうだよね。でもどうしても行きたい」
「うーん分かった。じゃあ行こう。きっと授業はオンラインとかで見られるでしょう」
「ありがとう」
 太田も最近、猫のスタンプを使うようになった。猫が『はいはい』と言っている。
 僕は何となく太田と若い時の祖母と話せば新しい大切な記憶を作れるような気がしていたのだ。

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