仮初の安全と声色の呪縛_2
(前話はこちら)
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高校2年生の三者面談。
白紙の志望大学届を見た吉岡先生はあきれた顔で僕を眺め、隣にいる母も困った表情を向けてくる。おそらく僕が話の口火を切るべきなのだろうが、僕自身の意見は紙で示しているので、他に何を言ったら良いか分からなかった。時計の針の音がはっきりと聞こえる無言の時間。この音が聞こえていなければ、時間が止まってしまったと勘違いするくらいの静寂に教室は包まれている。このままが沈黙が続けば、そのうち波の音まで聞こえてきそうだ。
「早坂、これ期日伝えていなかったかな。三者面談は親御さんもいらっしゃるから、相談して記入してきて欲しかったんだよな」
母がいるせいだろうか、いつもより丁寧に説明をしてくれる。普段はもっとラフに話すが、さすが大人だなと感心する。
「慶太。先生が説明くれているじゃない。なんで書いていないのか言いなさい」
母も家なら怒りを露わにするシチュエーションだが、冷静を装って僕に聞いてくる。いつもと違う大人たちの姿に背中がむず痒くなり余計に話すのがしんどくなってしまったので、とりあえず下を向くことにした。二人から小さなため息が聞こえる。
「お母様、慶太君は今、私大文系コースにいます。現代文と数学についてはかなり良いレベルにきていると思います」
と吉岡先生が母に伝える。
「息子のことを良く把握していただきありがとうございます」
「慶太君は好きな科目と嫌いな科目がはっきりしているのですが、あと1教科得意科目を作れば、選択できる大学の数はかなり増えると思いますよ」
母は静かに頷いていた。
「慶太、何か言いなさい」
母の鋭い視線が僕に突き刺さる。
「先生と母さんの言う通りにするよ。行きたい大学なんて正直ない。自分が将来どうなるのか検討もつかない」
夢のないことを語ってしまったが、僕には今勉強していることが、受験以外の何に役立つのかさっぱり分からないし、大学に行く意味もさっぱり分からない。
「今日はこのくらいにしよう。一旦用紙は返すからご家族で相談してみてくれ」
「申し訳ないです」
母の声色がいつもより高くなっている。これはイラついている時。これは帰りの電車はキツい時間になりそうだ。
母と僕は、吉岡先生に深く礼をして教室を出た。校門を出るまでは冷静を取り繕っていた母だが、一歩学校を出た瞬間に凄まじく不機嫌な声で僕に話しかけてきた。
「慶太、何のためにこの学校入れていると思っているの。志望校がないってどういうことなの」
「いや、そのままだよ。覚えてないけど高校に入る時、大学に行きたいとは一言も言ってない。大学の費用はいらないから、1年間海外で過ごす費用が欲しい」
完全な思いつきで言ったが、母はいったん会話をやめて、駅まで僕が追いつくのが難しいくらいの速さで歩いた。ヒールから小刻みで大きな音が鳴る。その心地よさが逆に不気味だった。改札を抜けた際に一言だけ母は僕に言ってきた。
「さっき言った話をそのままお父さんにもできるなら、そうしなさい。慶太の人生なのだからその選択を否定することは私にはできない」
その日はその発言以降、母は僕との会話を完全拒否。目的地は同じ家なのに僕らは別の車両に乗った。僕はお気に入りの音楽をいつもより大きな音量で聞いて、全ての外の音を遮断した。
父が帰宅するまで色々な伝え方を考えたが、父が頷く姿はまったく想像できなかった。スポーツ弱小校が名門校との対戦が決まった時のような、勝負をする前からもう白旗を振っているような状態だ。ちなみに僕の高校は、スポーツが強くない。あらゆる部活でそのような光景を目にしているのでとてもイメージができた。唯一強いヨット部のメンタリティは僕にはない。
「それで良いのか。もう少し考えてみろ」
父はそれだけ言って、僕から視線を外して野球中継に目を向け、晩酌を始めてしまった。やはりダメだった。結果は予想できていたが、実際にイメージ通りのことを言われると堪える。この選択については、父も母も一貫しているのは僕に選択させようとしていることだ。僕は食事が喉を通らず、茶碗を持ちながボーッと眺めるしかなかった。重苦しい雰囲気が食卓を包み込み。三者面談の比ではない。地球の重力が強くなったかと錯覚するくらい箸が重たい。妹は心配そうに僕のことを見つめ、母はこの件にはもう触れないと決めている顔をしている。
「ただの意見だ」
父がいつもよりも重たい口調で話し始める。
「俺は会社を経営している。社員5人の小さな会社だ。旅行業だから景気にも左右されやすい。ただお前たちと同じように社員を家族だと思っているから、頑張るしかない。良い事よりも、正直大変なことの方がはるかに多い。だから慶太には手に職をつけるか、圧倒的な資格、弁護士などになれるならなった方が良いと考えている。ただこれは慶太の選択ではない」
父が苦労しているのは何となく想像ができた。社員の皆さんにも当然だが家族があり、それぞれの家族も守っていかないといけない。だからこそのアドバイスなんだと思う。手に職をつけるならあの高校に行く必要はなかったことも分かるし、弁護士になるには僕は苦手科目が多すぎる。大きな波のように現実が一気に押し寄せてくる時間。僕はただただ情報の波に飲み込まれ溺れてしまった。でも誰もこの荒波に救命ボートを出してくれない。妹の優しい視線はこの荒波では、小さな浮き輪のようなものだ。僕はただ無言で父が食卓から書斎に行くのを待つしかなかった。自分の人生はどうなってしまうのだろう。この時、僕はまだ自分の人生の傍観者だった。
(つづく)