仮初の安全と声色の呪縛_9
(前話はこちらから)
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気がつくと1時間何もせずに、海を眺めていた。一定のリズムを刻む波の音が、心を落ち着かせてくれる。僕は呼吸に意識を向ける。ゆっくりと息を吸い、同じ強さで長く吐くようにした。胸にあった妙な重たさは少しだけ軽くなり、改めて予備校での太田への発言を思い出す余裕が生まれた。
人を傷つけることがあんなに簡単にできてしまうとは。そして、この後味の悪さは嫌な感覚しかない。耳の発達によりずっと避けてこられた感覚だ。本当に情けないと思うのが、傷つけた言葉が僕の本心ではなく、友人の意見であることだ。せめて自分の本当の気持ちであったら…。後悔の気持ちが溢れ、涙が流れてきた。
涙を流しているとポケットで携帯が揺れた。おそらく、隆太か淳からの折り返しだろうと画面を見ると母からだった。少しだけ遅い時間だから電話をくれたのだろうか。何となく電話を取る気になれず僕はしばらく携帯に映る『母』という文字を見ていたが、あまりにも長いのでさすがにおかしいと思い、僕は母からの電話に出ることにした。
「やっと出た。お兄ちゃん今どこにいるの?」
母の携帯で妹が僕に電話をしてきたようだ。
「今は、高校の近くいるよ。どうした?」
「おばあちゃんが入院することになった。今、私とお母さんは病院にいるけど来られる?」
「おばあちゃんが入院?分かったとりあえず病院の住所を送って、僕もすぐに向かうよ」
気がつけば、空は夕焼けから星が綺麗に見えるくらい暗くなっていた。駅に向かう道中も真っ暗になっていたが、気をつけながら僕は急ぎ足で歩いた。歩いている最中に祖母が入院をしてしまった原因を考えてみたが、大きな病気があるとかを聞いたことがなかったので、全く検討がつかなかった。とにかく少しでも祖母の状態が良いことを僕は願った。
電車の窓に映る僕の表情はひどいものだった。太田への発言。何も言わずにあの場を立ち去ってしまったこと。さらに祖母が入院しているこの状態は、僕の気持ちを落ち込ませ、表情を曇らせるには十分過ぎる。妹からもっと情報を聞くべきだった。せめて祖母がどんな状態なのかを確認しておけば、こんなにモヤモヤすることはなかった。
窓の外を眺めているつもりなのだが、景色ではなく幻想のように祖母との思い出が窓に映し出されていく。祖母と二人で行った縁日、祖母と二人で行った初詣、そして縁側での会話の数々。その時その時で印象的な言葉をたくさんもらっているはずなのだが、どんな言葉かは思い出せない。ただ、一つひとつのシーンは心に残っているし、言葉の数々は僕のことを支えてくれている。僕の心の中に確かにある。
祖母の病室の前まで来ると、母と妹、そして祖母の笑い声が聞こえてきた。僕の家系は、女性が明るい。声も大きく陽気で素直に発言できる人が多い。逆に男性は寡黙であまり笑わず本音を上手に言えない人が多い。僕も、もれなく親族の特徴に該当している。
病室の扉を開けると全員の視線が僕に集まった。妹が年齢を重なると母親の顔になり、母親が年齢を重ねると祖母の顔になる。よく似ていて思わず笑ってしまった。
「あんた、おばあちゃんが入院しているのにいきなり笑うのはダメでしょ」
そんな事を言う母は、なぜか嬉しそうだ。
「お母さん、お兄ちゃんは絶対来ないって言ってたんだよ」
最近、母の信用度を落としている自覚はあるが、まさか祖母の入院に駆けつけないと思われていたのは心外だ。僕はずっとおばあちゃん子なのだ。
「私は、慶ちゃんは来てくれると思ったのよ。せつと賭けをしていた」
祖母は僕に笑顔を向けてきた。孫が病院に来る事を賭けの対象にするくらい元気であることは分かったので安心した。あの二人が何を賭けていたのかは怖くて想像するのも嫌だった。大したものではないような気もするし、とてつもなく大きなもののような気もする。
「うっかり転んでしまったのよ。入院なんて大袈裟よね」
祖母の声のトーンが、少しだけ乱れているような気がした…。多分、僕の勘違いだ。だって目の前にいる祖母はいつもの祖母だ。
「母さん、今日は帰りますね。また明日来ますから」
もう少し祖母と話をしたかったが、母が帰ると言ったので僕らは帰ることになった。祖母は手を振って僕らを見送ってくれた。
「母さん、おばあちゃんは本当に平気なんだよね。なんか少しだけ違和感があったんだけど」
「あの歳だから転ぶこともあるわよ。明日検査もあるみたいだから、それである程度状態も分かると思うわ」
僕は頷いた。母は嘘は言っていないと思う。僕は祖母の綺麗に掃除された家を思い出していたのだが、転ぶような場所は一つもなかったような気がする。何か片つけ忘れたのかもしれない。
「今日の賭けは楽しかった。おばあちゃんとお母さんがあんなに盛り上がるの久しぶりに見たよ」
妹が笑顔で言う。僕は祖母について色々考えたが、悶々とするだけだったので、まずは明日の祖母の検査で何もないことを祈ることにした。