コハルの食堂日記(第10回)~苦しみましたクリスマス③~
明けて翌年の二月、「味処コハル」の営業が再開した。
前向きなはずの春子も一時は、それこそ店の存亡の危機か、とも思ったけれど、常連のお客さんは見捨てなかった。入院中にも、夫・勲だけではなく、お客さんが次々とお見舞いに来てくれて、クリスマスケーキやお節やらの「おすそわけ」を持ってきてくれた。いつも「おいしさ」を提供するのは春子からお客さん方へ、だが、このときだけは逆になってしまった。
営業を再開しても、しばらくはまだ通院しながら、なんとか店を切り盛りする。病床生活のため、体力が落ちていたこともあり、春子にとって今はそう無理はできない状況にあること、それはお客さんも承知した上で、だ。
やがて桜の花の時期を迎える頃には、「通常営業」ができるようになり、いつもの賑わいを取り戻していた。むしろ、休業前以上に賑わってきたのかもしれない。これもまた小森さんが「神さま」に祈ってくれたおかげかもしれない。
今まで、この店を切り盛りしていくにあたっては、それこそ自分のこの身だけを頼りにしてきたけれど、ここらでちょっと神棚のひとつでも店に取り付けようかねぇ、なんて頭の隅で思う春子であった。
春子と勲が知り合う、さらに前の話になる。
春子が東京の地に着の身着のままで、まるで家出同然で出てきた昭和四十七年。
春子は当初、住み込みで働ける食堂を探していたが、田舎から出てきた若者が店などに住み込みで入り「修行」するという時代では既になくなりつつあったのだ。
しかし、アパートひとつ借りるにしても保証人が必要だし、そもそも春子はまだ十八歳、未成年であった。家出同然で故郷から飛び出してきた春子。三歳年上の音楽好きの男子学生のアパートに居候していたのだ。
当然といえば当然なのかもしれないが、最初はお上りさん丸出しだった春子。その春子が垢抜けていくきっかけとなったのも、「家主」であった青年の影響であることは間違いない。
――故郷の両親は血眼になって私のことを探しているのだろうか、それとも既にいなくなったものとして放置されているのだろうか。おそらく後者だろう。私のことを探しているとしたら、いくらなんでもそろそろ、というかとっくに見つけられていて、下手すれば秋田に送還されているに違いない。この国の警察のチカラをナメてはいけないわ。まぁ、そのほうが私にとっても都合が良いんだけど。ただ、前にお父さんが言っていたように、もう秋田の実家の敷居は跨げないね。もちろん、きょうだいやおばあちゃんのことは心配だけど、自分自身の夢のほうが大事なのよ。
そう春子は思う。さらに「これからは日本も、アメリカのように個人主義の時代になっていくのだから」と、そういうことにして、家族を蔑ろにする言い訳とする。
昭和四十七年十二月。故郷を離れて迎える初めての年末だ。もう故郷の秋田は雪景色だろう。
この頃、春子はカフェのアルバイト店員として稼いでいた。そして、東京に来て初めてのクリスマスには、同居する学生に連れられ、クリスマスコンサートを聴きに行った。
それまではクリスマスなんてキリスト教、つまりは異教徒のお祭りだと思っていた春子。東京ってなんでもありなのね、と。同時に、東京のそういうところがなんだか好きなのよね、と思う春子であった。
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