コハルの食堂日記(第1回)~プロローグ①~
平成三十年十一月三日。
秋深まる「文化の日」の土曜日の朝。全国的に「文化の日」は晴れやすいといわれる。
平成最後の「文化の日」である今日も、嵐に見舞われているという沖縄地方を除く、ほぼ日本全国で好天の休日となっている。東京の街並み、街路樹の葉も少しずつ色づき始めている。今月の下旬には東京都内でも紅葉が見頃を迎えるであろう。空の高い秋晴れの空には雲がぽつりぽつりと見られる程度である。
東京の下町・日暮里(にっぽり)にある個人経営の大衆食堂店「味処コハル」の店主・米倉春子(よねくら・はるこ)は今朝も開店準備に勤しんでいた。
定年間近のサラリーマンである夫・勲(いさお)との住居をも兼ねた、昭和風の二階建ての建物。その二階が米倉夫妻の住居で、一階の大部分が「味処コハル」の店舗である。夜は酒場ともなる「味処コハル」。昭和六十一年の開店以来、毎週水曜日の定休日を除いて毎日、昼も夜も六十四歳の春子の女手ひとつで切り盛りしているのだ。
まずは、店の中の掃除をして、お客さん目線に立った上での客席のチェック。調味料や箸の補充や整頓などをする。そう広くはない店内だが、カウンター席、テーブル席、座敷席とある。開店準備に伴うチェック箇所は意外と多くあるものだが、三十年以上この食堂の経営をしてきた大ベテランの春子はそんなことで時間をいちいち取られない。厨房に戻って在庫のチェックなどをする。コンロの火を入れて水や油を温めておく。大釜のご飯も炊きたての香りを放っている。
というわけで、お客さんをいつ迎え入れてもいい状態になった。時刻は十一時二十五分。そろそろ開店だ。春子は一旦コンロの火を消して、営業中の合図として「味処コハル」ののれんを店先に垂らす作業をする。「味処コハル」開店、である。
昭和四十七年三月。高校を卒業したばかりの金子(かねこ)春子、十八歳は親の反対などを半ば押し切るような形で地元の秋田県から夜行列車に乗って単身上京した。
高校の先生には大学か専門学校への進学か、さもなくば就職するか、と問われたが、春子は自分の夢を叶えたいといってきかなかった。その夢というのは「東京で自分の食堂を経営すること」であった。それも幼い頃から抱いていた夢なのだ。
春子は高校の先生にも「上京して、東京の食堂で住み込みで修行します」などと告げたが、それはそんなに易しい道ではないと先生は諭した。それに対して「一度きりの人生ですから、私の好きなようにさせてください。十年後になるか、二十年後になるかはわかりませんけれど、先生も東京へお越しの際には『味処コハル』へ、是非どうかいらっしゃいませ」と言い放った春子。もうその時点で将来開業する店の名前を決めてしまっていたのかもしれない。先生は苦笑しながら「まぁ、金子の人生だ。好きにすればよい。俺も東京に行ったときには『味処コハル』で食事させてもらおうか」と言って春子の夢、そしてそれへの道を認めた。
金子家の三男二女の五人きょうだいの二番目、長女として生を受けた春子。長女として家庭を手伝ってきて、家事には自信があった春子。成績も中くらいの春子を進学させる余裕があるわけでもなく、地元で就職させることを親は望んでいた。だが、幼い頃からの夢を高校卒業間際になっても捨てない春子に対し、父親は「そんなに出ていきたいのなら出ていけ! ただし、出ていったら二度とこの金子の家の敷居をまたぐことは認めんぞ!」と追い出すようなかたちで、春子の進路、その責任を春子自身に負わせた。
それでも母親は十八歳の年頃の、親の贔屓目かもしれないけれど器量良しともいえる、しかもいわゆる「秋田美人」というブランドまで付くことになる娘・春子を、どこから来たどんな者がいるかもわからない東京の雑踏の中へ送り込ませるのに最後まで強く反対した。
しかし、春子は高校の卒業式が済んでから日も経たぬうちに、最低限の身支度だけをして、夜中にこっそりと家を出て、駅へ向かったのだった。