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余白を作る為に働いていたら真っ白なキャンバスが出来上がってしまった

大きな会社を離れてみてわかったことがある。
会社という組織はよくできてる。
何年もかけて構築された社会の仕組みを感じる。

改めて、会社で働いてみて、よかったなと思ってる。
そして、そこを離れてみて、よかったとも思ってる。
さらに、新しく働きたいな、とも最近よく思ってる。

離れてみて思うのは、働いていた時には気づかなかった様々なことです。

ただただ追われていた日々を総括して、現状自分がどうなってるかを把握できた。

自分が何に興味があるのかとか、社会がどうなってんの?とか、ずっと放っておいた本だったりとか、レコードだとか、誰かに会うこともそう。

やりたいなーと思いながら、仕事だからと諦めていたものたちが、一斉に僕のスケジュールを抑えにやってくる。

それに翻弄されるがまま、自分の生活の中でできうる範囲振り回され、味わってみようと思った数ヶ月だった。その間心を澱ませることなく、清く、何者でもない自分でいたいという気持ちもあって、それは美しい家族のおかげで何とか達成できた。

強烈な快楽や、途方もない贅沢とは無縁の人生だったけども、それを埋め合わせて満ちるほどの想像力が自分の中にあって、ずっとそれに支えられてここまで生きてきたんだな。ということを改めて感じることができた数ヶ月だった。そして日々感じたことなんかを話す人がいれば、自分は割と幸せなんだとも思った。

とにかく一生懸命に手を伸ばして目を凝らした先に小さな光があって、それを愚直に追いかけ続けて、命が繋がっていた。歌が歌えていた。振り返るとものすごい危険な橋を鼻歌歌いながら猛ダッシュで走っていた場面も笑。

きっとこれからもそうなんだろうな。

「なんとかなる」と「なんとかする」の狭間で振り子のように揺れながら、体と心の水を絶えず動かして、腐らないようにする。揺れながらも支点は自分の心の中心に据えてブラさないで向かう先をしっかり見つめておく。

改めて、そんな自分自身の体験や、あふれんばかりの思いや、愉快痛快な人生を楽しむための工夫やアイデアを、人や社会の為に使えないかなと思うのです。

しかしながら僕のやってきた仕事やマインドは、名前がつかないものが多い。だからスキルセットは何ですか?とか言われてもこれといったキャリアはなんもないから転職活動に役に立つ武器がない笑

職場の人は家族よりも一緒にいる時間が長いのだから、一緒に働いている人たちを少しでも楽しませたい。そしてひたすら自分や自分に関わる人の仕事やタスクを効率化して、自分と自分の周りの人が自由に考える時間を作りたくて動いてきた。それはとっても得意だった。話せば一瞬で解決する話を、チャット上で延々とやってる人もいたし、関数組めば一瞬で終わるような作業を徹夜でやってる人もいた。そういうのを整理して、するする終わるようにしたり、倒れがちな納期を間に合わせたり、予算をはるかに下回る金額で対応し続けたり。それをゲームのようにこなしてた。

そして音楽に割く時間や、人に会ったり話したりする時間を作る。ということに特化した働き方をしてきた。結果、絶えず余白のある状態を作って働いてきたように思う。でもこれらの仕事に立派な名前がつくことはない。体は自動的に仕事をこなすようになった。するとその余白がどんどんおきくなって、自分でここに何か書いてみたいという思いが強くなる。そして体を自由にしたくなって、会社を離れた。その余白はキャンバスさながらスクリーンのように、毎日自分の心にある何かを映し出してくれる。

結果わかったのは、音楽をしている時間も、会いたい人と話している時間も、会社で何かしている時間も、いい具合につながって生産的なバランスで生計を立てられたらいいんじゃないかと最近は思ってる。そこの切り替えに時間がかからなければなんでもよいのかもしれない。

心のこの余白さえあれば、自分は目の前の人に笑顔を、あったかい言葉を用意することができる。僕はそれって本当に大事なことだと信じてます。

誰かを潤したり、心地よく揺らすことで自分も生活をして、潤されたり、揺らされたりしながら学んで、最新の自分でいれたらいいと思う。その辺は音楽と一緒。全部がくっついて一つの球体になれば光を反射しながらどこにでも転がっていける。それは夢や理想なのかな。きっとそうではない気がしてる。当たり前に描いていいことだと思う。

綺麗事をいう人を馬鹿にする人もいるかもしれないんだけど、綺麗なものをイメージできる力がないと、苦しい環境の中に溺れてしまうし、相手を美しく写す鏡にはなれないなと。

とりとめなくなってきたのでこの辺で。

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