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精神を病むということ

 大きな発表を控えながら、連日家族の夢を見てうなされて目覚めている。でも目を開けるとそこに僕の家族がいる。ぎゅっと抱きしめて、今日が始まる。過去と今を行き来しながら、心を今に定着させる為に、斜めに心を切り裂いて、あらゆることを思い出して、「今自分がどう思っているのか」を書いておきたいと思う。これも僕の一部、「超個人的な話」だけども、ここに僕の全ての行動と人格の動機が詰まっている。感覚的な話をどこまでも、延々と、時間を忘れて話続けていたいと思う。そういう仲間がいて欲しいと思う。

なぜこれまでに、過去への執着があるのか。今を生きる。振り払って未来を思うことは確かに大事なことだけど、自分のベーシックとなった体験、見過ごせなかった心の逡巡を無視して未来を見ることは、僕にはどうしてもできない。これはもう僕の個性であり性格だからごちゃごちゃ言わないで欲しいと思ってる。なぜあんな体験をしたのか。暖かい家族の中で振り返ってようやく、体系的に理解できるし感情的にも腑に落とせる。

僕の周りには、心を病む人が後を絶たなかった。自立できない魂が街中を浮遊していた。近年になって、僕はずっと考え続けてきた心や魂の定義というものがあって、感覚的ではあるけど、自分にフィットするものを見つけることができた。でもひたすらに忙しい日々の中で僕らはもう、考えることや心いくまで話すこと、心いくまで互いを肯定し合うこと。興味のある分野について議論をかわすこと、そんな時間が本当にない。そういうことがあらゆる心を病む原因なんじゃないかと思うようになった。

近年「人は一人一人みんな違って、理解し合うことができない、一つにはなれない」という概念がよりはっきりとしてきた。「一つになる」「理解し合う」という幻想で結びついた人と人が、あっけなく罵り合って離れていくことが起きる。そんなものを大量に見させられた世代が僕らの世代だ。恋に臆病になったり、結婚にカタルシスを見出さなくなったり、仮想現実で充分満たされたり。子供を作ることに不安を覚えるのは当たり前だ。上の世代はそのことに対して平気で自分のものさしでものをいうのだ。核家族化の加速はそのいい例。そうなって当たり前だと思う。両親が臨終のタイミングまで添い遂げたなんて話は、もうとんと聞かないおとぎ話だ。結婚をするなら、ノーベル賞、グラミー賞、ギネスブック記録、全てを取りに行く気持ちで、違う個性の人と共に暮らすことを楽しむ、冒険するような気持ちでいる必要がある。そういう気持ちならこれほど楽しい場所はない。細やかなコミュニケーションの一つ一つをいとおしめるはず。新しい形の夢を描けるはず。

そうなってくると「自分はなんなのか」というのがとても大事な考え方になる。自分の好きなものとその理由。自分の心のどこに刺さったのか。いつも何に注目してるのか。それに基づいてどんな経験を積み重ねたのか。そうしたアーカイブを相手にしっかり伝えていくことで、フィットする人とのコミュニケーションの中で、一部、ほんの一部、ようやく互いの居場所を作ることができる。互いのストーリーを互いの共通言語で共有していく。それができないと、ただひたすらに、マスに合わせて自分を捏造する遊びで人と関わるか、無用にはみ出して傷つくか。どちらかの経験のために時間と心を費やすことになってしまう。本当に話せる人が一人二人いたら、それだけで僕らの正気は保たれ、狂気に走ることなく暮らせる。それが異性なら、少しスリリングだけど、恋愛という経験もできうる。強烈な力を持つ体験だと思う。

僕たちの世代は、考えることよりも体を動かし続けて生きてきた世代。みんな裏方でのしあがってるイメージがある。下の人たちはもう少し賢い。僕は心底羨ましいと思っている。諸手を挙げて新世代の台頭を楽しんでる。励まされてる。中学生や高校生の自分にあり得た別の選択肢を、見せてあげて、お前の時代よりも楽しくなっているよと話しかけてあげる。歌ってる自分は14歳くらいでいろいろが止まっているから、彼には充分今の若い世代の活躍はリアルタイムで伝わっってる。

心を病むのは、本当に簡単にいうと、「自分のやりたいことができないから」と、「自分のやりたいことがわからない」からくるものだと思う。またそれらの考察のための時間を使うことが許されないことからくる。その状態のまま、社会に取り込まれていくと、心の深い部分、一番柔らかくて本質的な場所が、拒絶反応を起こす。理由がわからない。体が真っ先に反応する。これって食品アレルギーとよく似てる。

アダルトチルドレンに代表される心の病は、もっと遡る。生まれた時から親の顔色だけを見て生きていて、純粋な自分の心の発露が叶わない人たちが社会に出ていく時、本来感じる必要のないストレスや悪意が心の髄へ直撃することになる。僕の父、亡くなった姉はこれに当たる。そんな父に育てられる。そんな父の父に可愛がられる。そんな父と母の決定的な矛盾を突きつけられて、生まれた軋轢のソフティケートに子供が奔走し、日常的に心が不安定になる。親は親で子供の奔走すらも、計算に入れて家族を運営する。子供を自分に都合のいいようにカスタマイズする。そんなことだけで大事な思春期を過ごす。自分のためではなく、誰かのために清く正しくあろうとする。宗教にハマったりする。ゴミだらけの社会に出て雑味や毒の前に全身が硬直する。無理して雑味や毒を飲む、一緒に清を合わせ飲むことを忘れて。いつしか心の中がゴミためになっていく。僕は誰かが心を病む時のそんな心の地獄をイメージすると心の奥にある「怒り」がせり上がってくる。心から安心して眠れるまで、ずっとそばにいることができたらどんなにいいだろう。

世の中はこれから少しずつ変わっていくと思う。僕のような子供がまだ夢を持って暮らしていたら。だけどね。濁と同じかそれ以上の清を取り入れる一助に、僕らの歌があってほしいと思ってる。濁の中の栄養分を咀嚼するには、通り一辺倒ではない多くの物の見方を楽しむ教養やら嚙みくだく歯や、ゴミをこしとるエラが必要。僕はそれを音楽と音楽に関わる人、本や映画から学んだ気がする。誰の邪魔もされず、家族の世話もせず、そんなものに夢中になる時間をくれた両親には、そのことにおいて本当に感謝している。今も発展的な日々を過ごしてる数少ない友人にも、心から敬意と感謝を持ちたいと思う。

真面目な話ですみません。

中野陽介

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