「資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る」の、第26回。
(初めての方へ・・・このシリーズは「資本論を nyun とちゃんと読む」と題して進めている資本論第一巻の逐文読解プロジェクト(最新エントリはこちら)の補足であり、背景説明であり、読解中のワタクシの思考の垂れ流しでもあるというものです。)
gleichgültig シリーズの四回目となりました(一回目、二回目、三回目)。
さしあたりこのシリーズはこのくらいで切り上げようと思うのですが、最後に「疎外」につなげて語ってみましょう。
gleichgültig (無関心)と「疎外」が関係あるということは日本語でも直観的にわかりますよね。
ただ資本論では「疎外」、Entfremdung という言葉が出てきません(あったらごめんなさい。すくなくとも目立った形ではということで)。
しかし「マルクスと言えば疎外」というようなイメージを持っている人は結構多いと思うんですよね。
かつてあった「疎外論」ブーム
どうやら1960年代の日本(というか世界)で「疎外論ブーム」ともいえる状況があったのです。
もちろんワタクシはリアルタイムで体験していないのですが、その当時一橋大学の学生だった黒沢惟昭さんが、2010年に書かれた『疎外論の再審』という文章をワタクシ先日見つけまして、興味深く読んだので(山梨学院リポジトリ)、冒頭部分を少し引用しましょう。
へええって感じです。
さらに面白いことに、2010年には黒沢の「手許」にあった高島善哉教授のこの論考は、今はネットで読むことができるじゃないですか。
今回の目玉はこちらです\(^o^)/
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/3461/
すばらしい\(^o^)/
資本論と疎外
高島はパッペンハイムを高く評価したうえでこう書いています。
そう。
先ほど書いたように資本論(後期マルクス)では Entfremdung (疎外)は前面に出てきません。
だからマルクス研究者たちは、あとから発見された草稿を読んでヘーゲルやフォイエルバッハ以前との、疎外と言う意味でのつながり(もしくは断絶)を発見し、その上で資本論を改めて解釈しようとすることになったのですね。
高島がパッペンハイムを持ち上げるくだりでは、こんな風に書いています。
いやいやその通り。
ちょっと注目しほしいのは続く次の一節なんです。
そうなんですよね。
ドイツ観念論のエトスにどっぶり使っていたワタクシは、MMTを知った後、あれは四年前ですか、ミッチェルと大石さんの導きにより、まずは『資本論』かなと思って読み始めた最初の数ページで「これは!」と雷に打たれたもので。(ちょっと書いたことがあります)
その文章、疎外(Entfremdung)という言葉はなくても、gleichgültig をはじめとした言葉の使い方はこのエトスそのものであり、しかも洗練の極みではありませんか!
でもその直後、松尾匡さん(諸事情により敬称付き)の「用語解説:疎外論」というページを見つけて、ものすごく失望したのですよね。
そのページの内容は、ほどんど嘘でしょう。
ないないないないない!
次回、そのへんをちょっとだけ。