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定家仮名遣いとその周辺で

この記事は「言語学な人々 Annex Advent Calendar 2024」の17日目です。

2024年がもうすぐ終わろうとしています。私個人にとっては、博士論文を無事提出することができたという点で感慨深い年となりました。

色々なことがあった一年でしたが、日本語・日本文学史の世界にとっては、ふじわらのさだいえ(「ていか」とも読みます)自筆本『けんちゅうみっかん』の発見が大きなニュースでした。また、私も今年は定家仮名遣いに関係する論文を一報発表したので、個人的にも今年は定家とのかかわりの多い年でした。そういうわけで、今年のXでのポストを取りまとめて、藤原定家の仮名遣いについてのちょっとしたエッセイにしたいと思います。

『顕注密勘』で藤原定家の時代の日本語のアクセントが分かるかも?

今年(2024年)の4月、藤原定家自筆の『古今和歌集』の注釈書、『顕注密勘』の発見が話題となりました。

文学通信さんによる記事リンクまとめ:

私は日本語の発音、特にアクセントの歴史を専門としており、あまり直接の関係のある領域ではないのですが、その観点からこの発見に対する感想を言っておきたいと思います。

報道されているとおり、『顕注密勘』はけんしょうというお坊さんが『古今和歌集』に対して注釈をつけ、それにさらに定家が注釈をつけ加えたものです。昭のに対して、定家がかにかんがえをつけ足したから『顕注密勘』なのでしょう。

顕昭のろくじょうとうと定家のひだりは、和歌の世界でライバル関係だったと言われており、言わばライバル同士がタッグを組んだ注釈書ということになるでしょうか。

ところで、顕昭はいくつかの和歌集の注釈書を書いています。顕昭の注釈書ではしょうてんというアクセント記号を用いて和歌が説明されており、平安・鎌倉時代の声点つきの注釈書の中では質・量ともに最良のものとされています。

このような顕昭の注釈書に基づき、当時の日本語のアクセントが研究されてきました。

  • 秋永一枝(1962)「顕昭の声点本について」

  • 秋永一枝(1987)「「袖中抄」声点考」

  • 秋永一枝(1988)「注釈をよむ――顕昭「袖中抄」の声点から1――」

等の論文があります。

藤原定家(永井如雲編(1939)『国文学名家肖像集』(博美社)より)

話は変わりますが、昔の日本語では「お」(o)と「を」(wo)には発音の区別がありました。そのため、「お」と「を」はきちんと書き分けられていました。しかし、平安時代の途中でこの二つの発音は区別が失われてしまいました。そのため、人々は様々な言葉を「お」と書いていいのか「を」と書いていいのか迷うようになってしまいました。

そこに現れたのが定家です。定家は、自分の言葉のアクセントに基づいて、低く発音する場合は「お」、高く発音する場合は「を」と書くことに決めました。逆に現代の観点からすれば、定家が「お」と書いているか「を」と書いているかによって、その言葉のアクセントが分かるのです!

ちなみに定家がアクセントに基づいて仮名遣いを決めたという話は、かつてはただの言い伝えで、事実ではないと考えられていました。ところが、戦後におおすすむという学者が「仮名遣の起源について」(1950)という論文で、この言い伝えが事実であることを証明したのです。

これまで『顕注密勘』は日本語アクセントの資料としてあまり検討の対象とはなってこなかったのではないかと思います。が、自筆の原本が出てきたことで今後活用され、当時の日本語のアクセントを知るための貴重な資料となるかもしれません。

あまり直接の関係のない私の専門領域ですらこれだけのインパクトがあるのですから、文学史・和歌研究がご専門の方にとってのインパクトは計り知れないのではないかと思います。喜ばしい発見ですね。

『日本音義』の仮名遣い
——荷田春満が契沖の学説を受容したのはいつごろか——

今年、『国学院雑誌』の5月号に拙稿「『日本音義』の仮名遣い——荷田春満が契沖の学説を受容したのはいつごろか——」が掲載されました。以下、この論文の内容をざっくり解説してみたいと思います。

『国学院雑誌』令和6年5月号

まず、この論文の前提となることがらを説明しておきましょう。先にも述べたように、「お」(o)と「を」(wo)の発音の区別が失われてしまった後、定家は自分の言葉のアクセントに基づいてその書き分けを決めました。

定家が決めたこの仮名遣い(ていづかい)は広く使われてきましたが、江戸時代にこれに反対する人が現れました。けいちゅうです。

契沖(『国文学名家肖像集』より)

契沖は、『しょうらんしょう』という本を書き、「お」と「を」がきちんと書き分けられている古い時代の文献に基づいて「お」と「を」を書き分けようと主張しました(契沖仮名遣い)。これが今でも古文の時間でお馴染みの歴史的仮名遣いにつながります。

しかし、この契沖の主張はすぐに受け入れられたわけではなく、反対意見を唱える人も少なくありませんでした。そのような状況下で、最も早くこの契沖の主張どおりの仮名遣いを使い、著書の中で定家仮名遣いを批判した人の一人がだのあずままろでした。

荷田春満(『国文学名家肖像集』より)

ここまでが前提で、ここからが私の論文の内容です。

荷田春満はいつごろ契沖の仮名遣い説を受け入れたのでしょうか? そして、どのようにして受け入れたのでしょうか? それについて論じたのが今回の論文です。

荷田春満とその門人が編纂したとみられる語彙集に『日本音義』があります。『日本音義』は宝永5(1708)年9月1日に書き始められました。『日本音義』は万葉仮名と漢文で書かれているのですが、その万葉仮名の仮名遣いを調べてみたところ、面白いことが分かりました。

『日本音義』では、契沖仮名遣いで「お」と書かれる言葉は、ほぼ「於」と書かれています。契沖仮名遣いで「を」と書かれる言葉の場合は少しややこしくて、定家仮名遣いでも「を」であればほぼ「遠」、定家仮名遣いでは「お」であればほぼ「乎」と書かれています。

定家・契沖・春満の /オ/ の仮名遣いの関係

春満の『日本音義』の仮名遣いは、定家仮名遣いと契沖仮名遣いとを合わせたような仮名遣いなのです。語例を示すと、こんな感じです。

定家・契沖・春満の /オ/ の仮名遣いの語例

松本久史氏の『荷田春満の国学と神道史』(32–35ページ)によると、宝永5年2月13日の時点では春満はまだ定家仮名遣いのような仮名遣いを使っていました。ということは、春満は宝永5(1708)年2月13日から9月1日までの間に契沖の仮名遣い説を受け入れたのではないでしょうか。

しかし、すぐには定家仮名遣いを捨て去ることができなかったため、この二つの仮名遣いを折衷しようとしたのではないでしょうか。これが今回私が発表した説です。

(終わり)

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