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ディバイデッドホテル 8/32

「この店に来て、トマトバーガーを食べないって、どうよ?」
フィッシュバーガーを頬張る加藤廉の顔を、田代信郎は、向かいの席から覗き込んだ。
「トマト、食えないんすよ」
田代は瞼を開いた。
「こいつァ、驚いた! ピーマンが嫌いな奴は、今まで何度も会ったことがあるけどよ、トマト嫌いははじめてだ」
「いや、その。嫌いなんじゃなくて、食えないんス」
田代は二、三度瞬きして加藤を見た。加藤は、分厚い一重瞼の下の小さな瞳を伏せ、張り出した頬を赤らめた。
「アレルギーか」
「面目ねえっす」
田代は加藤の顔を覗き込んだ。
「重症なのか?」
「死んじまうかも、知れないって」
「そりゃ、相当なもんだな」
田代は両手を広げて天井を仰いだ。
「伊東組のヒットマン、無敵の殺し屋加藤廉が、野菜に殺される、ってか。シャレになんねえ。まあ、でも、気にすんな。人間誰しも、苦手の一つや二つはあるもんだ」
田代はトマトバーガーにかじりついた。加藤は瞼に険を籠め、梶原を振り返った。
「オメエは、ないのか。苦手は?」
梶原は、ビクッと震えて、ポテトを摘まもうとした手を止めた。
 麻薬捜査員の梶原は、伊東組に軟禁されていた。
 金沢が消えて、彼のミッションは終わった。彼は厚労省の麻薬取締の実行部隊である『麻薬Gメン』の配下だが、実態は県の職員だ。それも正規雇用ではなく、会計年度任用で採用された元薬剤師で、身分は、期間雇用のアルバイトだった。県庁では総務課所属で、仕事は主に、薬物使用者の尿検査、と言われていた。実際彼は、つい先月まで、県立の施設に閉じ籠って、同僚たちと茶を飲み、談笑ばかりしていた。一応、逮捕権もある取締員だが、広い神奈川全域を対象としながら、一〇人にも満たない人数で、麻薬犯罪のすべてを網羅するのは不可能だ。彼らは、週に一、二度、警察から持ち込まれる検体の確認のために、週四日、概ね三〇時間、残業はほぼゼロ時間で拘束されていたのだった。
 厚労省の麻薬捜査官が、伊東組とコネクションを構築したのは、つい先月のこと。いわゆる『半グレ』の金沢は、老舗ヤクザの伊東組にとって煙たい存在であり、麻薬Gメンと利害が一致した。金沢ルートの壊滅のために、Gメンが潜入捜査を企画し、その先兵として、県の捜査員の中で最も若く、体力もある梶原に、白羽の矢が立ったのだった。伊東組と協力し、金沢一派の販売ルートを潰したことで、一応、彼の任務は終わっていた。
 だが田代は、彼を解放してくれなかった。
 ミッションは続いている。大麻の仕入れルートは一つじゃない。金沢のような小物を排除しても、あちこちから送り込まれる魅惑のハッパを止めるのは難しい。次のルートを止めるために、協力関係を継続するべきだ。
 半ば脅迫だったが、梶原は逆らえなかった。彼らが本物のヤクザであることに対する畏怖感もさることながら、目の前で容赦ない殺戮を見せつけられて、すっかり思考が吹っ飛んだ。
 逆らえば、金沢と同じ目に合う。
 彼はそう思い込み、田代たちに逆らえなくなった。
 田代は、梶原がGメンと連絡するのを許可した。Gメンは、ミッションの継続を指示した。梶原は、ますます田代たちから離れられなくなった。
「ぼ、ボクは、キュウリが嫌いです」
「キューリ?」
加藤が裏返った声を上げた。田代は笑った。
「お前、キュウリなんて、何の害もないぞ」
「まあ、キュウリは誰でも食えるな」
加藤は、梶原の齧りかけのバーガーを広げ、ピクルスを見せた。
「キュウリ、食ってんジャン」
「ピクルスは、平気なんっす」
「これ、キュウリのピクルスだぞ? 嫌いじゃねえのかよ」
「その、何て言うか、キュウリの、触感がイヤなんっす。ピクルスは、柔らかいじゃないですか」
田代と加藤は顔を見合わせた。
「あのな、お前」
加藤は彼の肩に腕を回して言った。
「それ、わがままだぞ?」
田代も笑いながら、「わがままだな」と付け加えた。
 わがまま?
 そうだろうか。
 加藤の説はこうだ。
 彼は、トマトが食えない。しかし、味は嫌いじゃない。むしろ好きだ。トマトには、昆布と同じうまみ成分が含まれており、そのまま食べても、スープに入れて煮込んでも、味が染み出す。特に肉との親和性は高く、ミートソースやミネストローネには欠かせない。このトマトを、ハンバーガーと合わせたのが、このバーガーチェーンのトマトバーガーだ。加藤は、これを食べたかった。しかし、彼の体質が受け付けなかった。旨いと分かっていながら、食べられないというジレンマ。天から与えられた宿命。これは悲劇だ。
 一方、キュウリはどうか。味を嫌うのは自由だ。触感を嫌うのも自由だ。しかし、キュウリアレルギーは、未だ発見されていない。キュウリを食べて体に不具合を来たす者はいないのだ。すると、嫌うこと自体の不合理さは、どう説明できるのか。自由だから嫌う。悪いことではない。しかし、良いことでもない。キュウリは栄養価の高い食品の一つであり、その触感もまた、愛好する者が多い。嫌うのは自由だが、嫌う動機はどこから来るかと問えば、結局のところ、自分の妄念の中から、としか言いようがないはずだ。根拠のない思い付きを理由に嫌うこと。これは、わがままだ。
「ま、待ってください」
梶原は、顔を赤くして反論した。
「根拠がないわけじゃないですよ。キュウリの、あの、独特の嚙み具合と舌触り。口の中でいつまでも消えないシャリシャリ感。ここに、異質なものを感じるんです。この異質さが、受け入れられないんです」
「異質を排除するってことは、同質しか認めないってことか?」
「主観的に気に入らないものを意図的に避けるのは、差別主義だべ」
ヤクザ者二人に睨まれて、梶原は絶句した。
(つづく)

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ぜったい、いやだ|nkd34 (note.com)

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