見出し画像

ディバイデッドホテル 10/32

 店についた頃には、日が暮れていた。
「キミ、ホントにそれだけでいいのか?」
明夫は、向かいの席の、輝美の顔を覗き込んだ。左顎に、小さなニキビがあった。
「いいのよ。ほっといて」
「足りないだろ?」
「大丈夫よ。後でお菓子でも食べるから」
明夫は横目で陽子を睨んだ。陽子は機嫌が悪かった。自分の娘に構うことなく、カニ入りトマトクリームのパスタと、オニオングラタンスープと、特製ドレッシングの海藻サラダに取り掛かった。
 輝美が頼んだのは、ジャンバラヤ一皿だけ。ソースの染みたライスに、ひき肉と、玉ねぎにみじん切りと、干しブドウを散らした洋風ピラフだ。明夫は、自分で頼んだハンバーグとミックスフライの皿からエビフライを取り上げ、輝美の皿に移そうとした。
「やめて」
「いいジャンか。食べ切れないんだよ」
「この子、エビ、カニはダメなの。ウニも」
「アレルギーか」
「そう」
陽子は食べ物の詰まった声で応えた。輝美は上目づかいで明夫を見た。
 ファミレスの『ぺニーズ』を選んだのは、輝美だった。
 明夫の馴染みだった七海に、手切れ金を渡す席に、陽子は乗り込んできた。後腐れを避けるために、自分の存在を知らしめたい、と言い張った。明夫は彼女の言うなりに従った。七海とは、ディバイデッドホテルで暮らすようになってから親しくなったが、恋人でもなければ婚約者でもなかった。呼ばなければ会うこともない間柄だ。だが、僅かな間ながら親しみ合った仲であり、少なからず、彼との付き合いの間には、他の男を退けさせたといういきさつもあるので、別れのしるしに、まとまったカネを渡したのだった。
 彼は百万用意した。そこへ陽子が口出しし、一〇万に値切った。
「一〇万じゃ、普段と変わらないよ」
「そんなに払ってたの?」
陽子は、怒り気味に彼を責めた。毎回じゃないけども、と彼は言い訳した。一晩付き合っても、二万稼ぐのがせいぜいだった七海にとって、明夫は上客だった。
 明夫は陽子の手前を憚って、半分に減らした。それでも彼女は収まらなかった。五〇万もあれば、例えばホストクラブで雑な扱いをされずに済むと考えたのだが、持ちつけないカネを持たせたら、稼ぐための苦労を忘れる、と陽子に説教され、結局三〇万に落ち着いた。その後現れた七海は、黙ってカネを掴み、出て行った。
 入れ替わりに輝美が来た。腹が減ったと言う。彼女らの暮らす天王町のアパートには、レンジでチンするだけのご飯があるし、インスタントラーメンもある。レトルトカレーや麻婆豆腐の類は欠かしたことがないし、キムチは冷蔵庫に常備してあるし、乾麺のパスタも、その気になれば茹でるだけで食べられる。腹が減れば、好きなように食べればいい。そう言って陽子は怒った。機関銃のように彼女の言葉が飛び散った。だが輝美は、彼女の放つ言葉の弾丸を軽く無視して、明夫の隣に掛け、カマンベールチーズを摘まんだ。
 その手を、陽子ははたいた。
「寄せよ」
パソコンから目を離して、明夫は身を乗り出した。テーブルの上に屈み、娘に手を上げようとしていた陽子の肩を両手で押さえた。
「奢るよ。外に食べに行こう。オレも、腹が減ってるんだ」
「そんな余計なカネは、使っちゃダメ!」
陽子は金切り声を上げた。
「コイツは、ホントに間尺に合わない。コイツはね、こういう奴なんだよ」
 娘に会って欲しい、と陽子は言っていた。一緒に暮らすなら、家族となる相手を知っておいて欲しい。もちろん、明夫もそのつもりだった。こんな場末のビジネスホテルではなく、駅前の、有名ブランドのシティーホテルで、こちらはスーツにネクタイ。あちらは、制服で、たいして面白みはないが清潔な着こなしをし、光沢のある革靴か何かを穿いていて、互いに強張った顔つきで、初対面の挨拶をする。厄介だが、反面、面白そうだ、と明夫は思っていた。この年まで未婚の彼は、夫とか、父とか言った地位に、単純な興味があった。実際にそうなったとき、自分がどういう心境になるか。どういう反応をするか。陽子と再会し、親しくするようになってから、この興味が、彼にとってささやかな楽しみになっていた。
 娘を持つ父親とは、どんなものか。
 陽子の娘は、何の前触れもなく、スマホの位置情報を頼りに母親の居場所を突き止め、フロント係の制止も聞かずにVIPルームに上がり込み、カマンベールもゴルゴンゾーラも平らげ、さらに「ぺニーズ行きたい!」と屈託なく宣言したのだった。
 黄色い下地に、赤の英字の筆記体で大書された看板。老舗ファミレスチェーンのぺニーズは、陽子と明夫が初デートした場所だった。
「ぺニーズ? 片倉町まで行かないとないな」
「片倉町って、どこ?」
横須賀出身の陽子は、横浜の地名に疎かった。
(つづく)

※気に入った方はこちらもどうぞ。
となりの注文|nkd34 (note.com)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?