見出し画像

ディバイデッドホテル 11/32

 カウンターに向けられた照明に、芳美はグラスを翳した。指先で回して曇りを探す。完璧だ。自画自賛した。いつもながら、自分の洗い物には隙がない。技の源泉は肩だ。グラスを洗うのはスポンジだが、それを操るのは指。指を動かすのは手。手に脳からの指令を伝えるのは腕。腕は肩についている。肩を安定させて、はじめて指の動きが整う。自分の体の末端を、如何に精妙に動かすか。末端の操作で、如何に精妙に対象を操るか。それが極意だ。すなわち、末端のために、根幹があるのだ。
「デートしない?」
カウンターに肘を突いて、ジントニックを呷っている七海に言った。
「どこ行くの?」
「どこって。どっか」
「だから、どこ?」
芳美は笑いながら、困惑げに眉を下げた。
 フロントはバーではないが、カウンターの内側に冷蔵庫と、簡易な調理設備があり、夜、寝酒を欲しがる客のための用意があった。芳美はバーテンダー気取りで、七海に酒を振舞った。
 七海は同い年だった。それを知ってから、親しく会話するようになった。高校を出て、しばらく会社に勤めて事務の仕事をしていたらしいが、その退屈さに飽き足らず、夜の仕事を覚え、やがて、昼だか夜だか分からない生活になった、と彼女は問わず語りに語った。
 夜はすぐに更ける。キミを迎えに馬車が来る。ああ、夜を止める方法はないか。
 七海は、フン、と鼻で笑い、「詩人にでもなれば?」と吐き出した。
「つまりさ、ステディな関係になりたいんだよ」
「ステディ? 英語苦手なの。中学で『二』だったんだから。日本語で言って」
「しっかりした、ってところかな」
「しっかりした関係? 何、それ。アタシとやりたいだけなんじゃないの?」
「いや、その。そういうことじゃなくてさ。何ていうか、もっと、深い付き合いができたらいいって、思うんだな」
「深い付き合いって、要するに、やりたいってことでしょ?」
「違うって。だから、その。何て言ったらいいのかな」
「やりたくないんだ」
「そうじゃないんだけど」
芳美はいら立った。
 山口たちが出かけた後、七海は戻ってきた。もともと横浜の人間ではなかったし、夜の街に、それほど行先のある性質ではない。ここに来れば、自分に気のあるフロント係が、頼んでもいない酒を奢ってくれる。適当にあしらって、適当に酔えればいい。
 芳美は続けた。
「映画なんてどう?」
「映画は嫌い。長いから」
「じゃあ、ボーリング」
「ヤダ。爪が折れるジャン」
「そっか。なら、ドライブしよう。気晴らしに、海でも見に行こうよ」
「海なら、いつでも見れるよ。この道まっすぐ行けば海ジャン」
七海は振り返って玄関を指した。
 ムム。どうしよう? 芳美は、他に思いつかなかった。自分では、人並みよりやや上くらいのルックスだと思っていた。過去には、しつこく言い寄る女の子もいた。それも、一人や二人ではなかった。女に困らないというほどではなかったが、たいてい目当ての相手がいて、たいてい相手も彼を目当てにしていた。だから、デートに誘ったり、誘われたりといったことも、互いの呼吸が合えば何の苦労もなかった。
 しかし、この娘は? どう誘えば靡くのだろう。
 以前、「好きなんだよ」とはっきり言ったことがあった。この場で、同じように彼女が一人で飲んでいた時だ。ムードも考えず、思わず口を突いて出た。
「アタシは、そんなふうに、自分の気持ちを簡単に言える人が嫌い」
彼女は言った。
 は? 
 なんだ、それ? 芳美は返答に詰まった。
「あんたは、お酒が好きでしょ?」
「好きだよ?」
「おしゃれも好きだし、この間、ヘビーメタルも好きだって言ってたジャン」
「そりゃ、まあ、そうだ」
「で、アタシも好きなんだよね?」
「え? ちょっと待って。それって、何?」
「だ、か、ら、」
七海は茶色い瞳で芳美を睨んだ。
「アタシはどうせ、お酒や、おしゃれや、ヘビーメタルと同じってわけでしょ?」
 おや、そうなるかな? 
 芳美は呆然と口を開けたのだった。
どんなふうに言えばいいんだろう。何に例えたらしっくり来るだろう。例えば彼女は、小舟。人波のざわめく海原に、ポツンと浮かんでいる。凪いでいる日ばかりではない。風の日、雨の日、嵐の夜。木の葉のように頼りなく、小舟は波間を漂う。助けたい。救い出したい。でも、できない。自分もまた、必死に波をかき分ける、一人の遊泳者に過ぎない。自分が先か、彼女が先か。溺れて死ぬのはどっちだ。
「ハッパ頂戴」
七海の長いまつ毛が上がって、瞳が彼を見上げた。頬にほんのり、ジンの酔いが浮かんでいた。
 『ハッパ』とは、乾燥大麻を詰めた紙巻きタバコのことだ。
「ないよ」
「ウソ」
「ホント」
「ウソだよ。アタシの目を見なさいよ」
七海の瞳孔は、甘えた猫のようにぼんやり開いていた。
(つづく)

※気に入った方はこちらもどうぞ。
バラとゴボウ 1/2|nkd34 (note.com)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?