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ディバイデッドホテル 13/32

 ファミレスで食事中、明夫の前で、母娘はケンカを始めた。
「私立高校を選べって言われたの」
「だから、私立はダメだって言っただろ!」
明日の三者面談の話だ。来春の高校受験のために、今のうちから志望校を考えておくように、と輝美は学校で言われた。第一志望は公立だ。比較的成績のいい彼女は、いくつかの候補を上げることができた。だが、公立入試は、学力検査の結果次第で不合格もあり得る。その場合、進学先がなくなる恐れがあるので、万が一の場合のために、抑えの私立高校を事前に受験するよう、学校で指導された。公立の検査の前に私立に合格していれば、少なくとも、進学先がなくなることはない。
「ウチは、カネがないの。私立なんて、あり得ないんだよ」
「高校の授業料は無償だから、お金がなくても私立に通う子はいるって言われた」
「は? そんなわけねーだろ。私立は、授業料以外にも、制服代とか、修学旅行費とか、余計なカネがかかるんだから。付き合う友達もカネ持ちばっかりだし。おとなしく公立に行け」
有無を言わさず決めつけて、陽子は小用で席を立った。むくれた輝美が、明夫と二人で残された。
 輝美は手元のスマホを引き寄せ、明夫の視線を避けて画面を覗いていた。明夫は軽く鼻息を吹いた。
 おとなしそうな顔つきで、彼の方は振り向こうともしない。最初に挨拶したきり、一言も言葉を交わしていない。思春期らしい反応といえるだろう。
明夫は、首を伸ばして彼女の顔を覗き込んだ。
「一度見られた顔を、忘れてもらえると思うなよ」
輝美は横目で彼を見た。それから、少し瞳を泳がせた後、瞼に険を籠め、鼻から軽く息を吹き、口元に薄い笑みを浮かべた。
「午王神社で、小学生にカツアゲさせてたな」
「あれは、ケンジが勝手にやってるの」
あっさり認めた。明夫は、その潔さにむしろ感心した。
「ああいうところで、知らない人に集るのはよくないな。怒る人もいるだろうし、神社の人にバレたら、ケーサツを呼ばれるぞ」
「お賽銭と一緒ジャン。ケチる方がどうかしてるよ」
開き直って、食って掛かってきた。
「アイツは、アタシと同じ母子家庭で、小遣いが少ないの。だから、あそこで時々水代稼いでるんだよ」
「小遣い、足りないのか?」
輝美は横を向いた。
 明夫は財布から五千円札を抜き出してたたみ、利き手の人差し指と中指に挟んで彼女に差し出した。輝美はまん丸く目を見開き、札を見、明夫を見た。しかし、スマホを掴んでいた両手を離そうとはしなかった。
 確かに、彼女の家は貧しい。学校指定のジャージはくたくたで、丈も少々足りていないようだった。隠しようがない上に、明夫は母親の幼馴染で、目下最も親しい相談相手とのことだから、見えを張っても仕方がない。しかし、輝美は、明夫の差し出すカネを受け取ろうとしなかった。それを取ることで、家庭の恥を晒すことより、彼に見下されることの方を嫌っているようだった。
「遠慮しないでいいよ」明夫は言った。「これくらいのカネを怖がってちゃ、大人になってから困るよ」
輝美は横目で明夫を睨んだ。バカにされたと思ったのだ。明夫は眉を下げ、「いや、そうじゃないんだけども」と軽く言葉を詰まらせた。この年代の子と普段接する機会がなく、どう扱っていいか分からない。
「奨学金だと思えばいい」
「後で返せってこと?」
「いや、そうじゃなくてね。つまりだな、」明夫は苦笑いした。「キミと、仲良くなりたいんだよ」
ハンカチで手を拭いながら陽子が戻ってきた。彼女は明夫の手から五千円札を抜き取ると、物も言わずに自分の財布にしまった。
 明夫と輝美は顔を見合わせた。
 店のBGMがむなしく流れた。平日のディナータイムで、店はすいていた。
 五千円は、出し過ぎだったか。明夫の胸の中に波が立った。しかし、千円はないだろう。今どき千円では、昼食代にも足りない。
 なぜ、カネを渡すのか。
 それは当然、相手に認知されたいからだ。それも、かなり強く。彼女とは初対面だ。さすがに一万は多いだろう、と明夫は考えた。五千円あれば、友達と遊びに行って、例えば映画を見たり、ボーリングをしたりして、その後食事をし、欲しいモノを買い、交通費を払ってもお釣りがくる。友人からの誘いというのは、いつあるか分からないものだし、中学生くらいなら、不意な誘いに備えて、普段からカネを貯めているものだ。そういった遊びの一回分の負担が減るわけだから、彼女には大きなメリットではないか。そんなことを考えながら、明夫は帰路へ車を走らせた。
 母娘は相変わらずケンカしていた。彼は言い争いに口を挟んだ。
「私立に行きたければ、カネは出すよ」
「ダメよ、そんなの」
陽子は自分の言葉にコーフンして、言動をエスカレートさせていた。
「人に頼る癖をつけたらダメ。マジメに勉強すれば、進学校だって楽に合格できるんだから。コイツは、努力したくないから、私立なんて言い出しているんだよ」
輝美はすっかりむくれて、後部座席で寝そべっていた。
 一理ある、と明夫は思った。
 高校に受かるには、努力が必要だ。学校での普段の勉強以上に、入試のための知識を増やし、答案を作るテクニックを身に着けなければならない。これは、中学生にとって大きな負担だろう。
 努力のできる子はすればいい。自分の能力の限界を試して、少しでも有利な進学を目指せばいい。というより、目指すべきだ。若いうちはその負担に耐えられるものだし、この時に得た経験は、当人にとって将来大きな資産になる。少なくとも、努力の結果得られる配当の見積もりが分かることは、人生の設計に大いに役立つものだ。陽子は、突き詰めて言えば、娘に、そういうことを伝えようとしているのだった。
 しかし、努力をするには、動機が必要だ。
 当然のことながら、人には、努力する者としない者がいる。ただ生きるだけなら、努力はいらない。よく生きようと願う気持ちが、人を具体的な行動に向かわせる。つまり、今より良い生活を手に入れたいという動機を持つ者が、努力をするわけだ。反対に、現状で不満のない者は、努力に価値を認めない。無駄な労力と捉えるのだ。
 もう一つには、世の中には、努力のできる人間と、できない人間がいる。単純な話だが、身体能力の劣る者はオリンピックに出場できない。初めからエントリーできないのなら、努力は無駄だ。
 輝美が言っているのはこういうことだ。自分は頭が悪い。やっても無駄だ。成績がいいのは見かけのことで、自分よりできる子はクラスにいくらでもいる。彼ら、彼女らと争って勝てる見込みはない。
 これも一理ある、と明夫は思った。中学校の内申点は、必ずしも学力を保証しない。学力検査の他に、主体的に学ぶ態度など、学校生活における姿勢を評価に加えるので、テストの点が良くても低評価という事態があり得る。当然、たいしてテストが良くなくても、高評価であることもある。輝美は後者だ。近所の小学生を使って神社の参拝客から賽銭を巻き上げるようなワルだが、大人受けはいいのだ。その点を当人も自覚していて、本来の学力を問われる入試には太刀打ちできない、と考えているわけだ。この場合、内申点を基準にして、推薦で受け入れる私立の方が有利になる。
 後部シートで輝美はスマホを弄り、助手席で陽子も同じものを弄っていた。
「知ってる奴?」
バックミラーを覗きながら明夫は言った。陽子もそれを見て、フン、と鼻息を吹いた。
「さっきから、呷ってやがるんだよなあ」
下りの環状一号線は、流れていたが、路上駐車が多く、ほぼ一車線だった。明夫は、後ろにピタリとつけてくる黒のBMWに舌打ちした。運転しているのは、すでに夜中だというのにサングラスをかけた、角刈りの中年男。「振り切れない?」と陽子は、スマホを覗く姿勢のまま呟いた。明夫はチラリと横顔を見た。彼女の頬が白く、少し戸惑った。
 信号が赤に変わり、明夫は停止線の先頭に停車した。と、次の瞬間、アクセルを踏み込んで後輪を回し、急発進して交差点を直進した。左右から進行していた車両は、急ブレーキをかけた。後ろのBMWは、彼を追って車体半分停止線から乗り出したが、クラクションを鳴らされてその場に固まった。
 明夫が掲げた左手に、陽子がグーでタッチした。
「危ない!」
輝美が後部座席から抗議した。彼女は、シートから滑り落ちたスマホを拾うために、シートの下に頭を突っ込んでいた。
(つづく)

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渋谷たたき|nkd34 (note.com)

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