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売られたヤクザ その9

 佐原刑事は、午後、牛王町商店街の隅の信金を訪ねた。
「宇佐美氏、いる?」
順番を待たずに窓口に押し掛け、係の女性に尋ねた。老婦人の応対をしていた彼女は、笑顔の中に困惑を浮かべた。
 信金の傍のコーヒーショップで、額から顎まで、およそ脂っ気のない中年男を前に、佐原は口座の入金記録を眺めた。
「まだ、入ってるじゃん」
「そうなんですよ」
自分の口座ではない。ごく普通の主婦が、お年玉の貯金用に、自分の子供の名義で作った口座だ。昭和の終わりごろからコツコツと少額が入金され、百万近くまで金額が膨らんだ。平成になってからカネが引き出され、その後入金がなくなり、ほぼ休眠状態だった。
 この口座に、数年前から入金が再開された。つい先日も、一〇万ほどの入金があった。
 佐原は口座の周辺を調査した。主婦は他界し、名義人の息子は四〇を過ぎていまだ健在だったが、父親と二人、朽ちかけたマンションの一室に引きこもり、ほとんど世間とのつながりを絶っていた。父親の年金が二人の生活の資で、すでに高齢で、申請さえすれば要介護認定されそうな父親が亡くなったら、息子の生活は手詰まり。
 別段珍しいケースではない、と佐原は思った。男というのは、自分の能力に見合った仕事がなければ何もしないものだ。たとえ生活に支障を来たしても、だ。実際、三〇半ばの彼の友人、知人でも、学卒以来仕事らしいことをしたことのない連中が、十指に余るほどいた。健康に問題があるわけではなく、思想信条の問題でもなかった。無駄に動かないというのは、男性の本能だろう。
 それはともかく。
 この、引きこもり中年男名義の信金の口座が、特殊詐欺集団の手に渡っていた。経緯は不明だが、『平井紀夫弁護士』なる者の口座として、詐取したカネをプールする口座に利用されていた。平井紀夫は男の本名だ。
 詐欺集団の海外の拠点は粉砕した。つい先月のことだ。詐欺がやめば振り込む者がいなくなるわけだから、口座はまた休眠するはずだ。そこへ、まだ振り込みがあるとはこれ如何に。
「振込人は?」
言われて、宇佐美は氏名と住所、電話番号まで書かれたリストを差し出した。
 宇佐美は警察の協力者だった。
 もちろん、犯罪撲滅のため、信金自体が全面的に県警に協力していたが、表向きの協力には自ずと限界がある。個人情報保護の見地から、各口座の中身まで見るには、それなりの理由が必要だ。信用金庫の名の通り、顧客の信用を失ったら経営が立ち行かない。地元警察署とはいえ、一刑事が全ての口座の取引の開示を要請できるほど甘くはない。宇佐美は、例の悪趣味の証拠を佐原に握られ、検挙を免れる見返りに、怪しい口座の情報を漏らしているのだった。彼の心境は複雑だ。信金職員としては背信行為だが、善良なる一市民としては、特殊詐欺撲滅のために協力していることになる。
「誰なんだ、この、田代丈二って?」
「さあ」
宇佐美は伏し目がちに言ってコーヒーをすすった。
 もちろん、二人とも田代を知らないわけではない。警察の職務質問を振り切って逃げ、いまだ行方の知れない逃亡犯として、連日ニュースに取り上げられている時の人だ。
 振り込みの名義人リストに載っている名は、近年はほぼ二人だけだった。一人は楠美龍太で、もう一人が田代丈二。楠美からの振り込みは一年前に終わっていた。その後の入金は全て田代。佐原が楠美の組織を内偵できたのは、この口座の存在を宇佐美から聞き出したからで、田代の名は、口座情報を開示させるたびに確認していたが、それほど重要ではないと考えていた。口座は楠美が上部組織に献金するためのものであり、田代なる名義は、彼の変名と考えていたのだ。
 その田代が、逃亡犯として注目されている。佐原もまた、複雑な心境だった。彼が追っていたのは楠美で、彼を追い詰めることには成功したが、不測のとばっちりで自分は捜査から外された。その後に田代の騒動が持ち上がったわけだが、左遷された彼は、局外に置かれている。そもそも、楠美にかまけて田代を追わずにいたことが、今回の県警の不手際の遠因になったとも言えるわけで、これは反省点だが、一方で、単に公務執行妨害で追われている男が、特殊詐欺事件に関わっていることを知っているのは、現在自分だけ。つまり、先の失態を償って余りある功に、自分が一番近いところにいるわけだ。彼がこの日宇佐美を呼び出したのは、他でもない、田代を特定するためだ。
「知らないのか?」
「ええ」
宇佐美の返事はそっけない。
「楠美は工藤組長の子分だから、田代も同じヤクザ者だな」
「そうでしょう、おそらく」
佐原は宇佐美の顔を覗き込んだが、彼はさっぱり視線を合わせようとしなかった。
「工藤が率いていたのがカタビラ組だ。組は、代替わりしたそうだな」
「さすが、お耳が早い」
「新組長は誰だろう?」
「さあ」
佐原は黙って宇佐美を見つめた。コーヒーカップを皿に置く時、底が揺れた。
「悪かったな、忙しいところに」
佐原は上着を引き寄せて立った。
 アッ、と小さく声を漏らし、宇佐美は佐原の腕を掴んだ。佐原は立ったまま彼を見つめた。宇佐美はしきりと瞬きし、瞳を上げたり下げたりした。
 佐原はまた、彼の正面に掛けた。
「言いたいことがあるな?」
宇佐美は、唇を小刻みに震わせていた。

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