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ディバイデッドホテル 12/32

 自動ドアが開いた。
「おう、七海。どうした? お茶引いてんのか」
薄手のハンチングを被った、顎の張った男が、カウンターに向かってきた。男は七海の隣の止まり木に腰掛け、カウンターに肘を突いて「ハッパくれ。上等な奴」と野太い声で言った。
 芳美はそそくさと下がって、『ハッパ』ではなく、冷蔵庫から冷えたビールを取り出してグラスに注いだ。
「まったく、近頃の若い連中は、簡単にヤクに手を出しやがる。七海、お前もやってないだろうな?」
「帰る」
七海はスマホを掴んで止まり木から下りた。男は彼女の左腕を掴んだ。
「まあ、待てよ。今夜はオレが相手してやる」
「離して」
「いいじゃねえか。ゆっくり慰めてやるよ。何なら、上物のヤクをやらせてやろうか?」
むき出しの二の腕を掴まれて、華奢な七海は、男にぶら下がるような形になった。男は赤黒い顔を膨らませ、梟のような笑い声を上げた。そこへ、背の高いスーツ姿の男が、自動ドアをくぐって現れた。
「長尾さん。何してるんですか、こんなところで」
彼は手に提げていた籠を、ロビーの応接セットのテーブルに下ろした。
「何って。民間協力者との、意見交換だよ」
「黙って出て行かないでくださいよ。単独行動で下手打つと、また始末書ですよ」
 二人は、神奈川県警戸辺署所属、生活安全部保安課の刑事だ。彼らは、マリファナ販売ルートの捜査のために、夜の繁華街を警邏しているのだった。
 また自動ドアが開いて、若い、堅気には見えない男三人が、ほろ酔い加減で入ってきた。一人は真夏にも関わらず黒スーツ、後の二人はジャージの上下で、それぞれ両手をズボンのポケットに突っ込み、足を蟹股にしていた。談笑しながらエレベーターに向かおうとしたが、受付カウンターの前で、ワンピースの裾から下着をむき出しにしてしゃがみ込む七海の姿と、睨み合う厳つい男たちの様子に気づき、足を止めた。
 犬が吠えた。甲高い吠え声。
「うるせえなあ」
ジャージの男の一人、加藤が呟いた。彼は犬が嫌いだった。
「ロバート! シャラップ!」
背の高い刑事、上杉謙太は、俄かに英語を使って、ロビーに置いた籠に向かって叫んだ。
 鳴き声は止まなかった。甲高い声が狭い響き渡り、その場にいる誰もが不快になった。
 梶原は長尾刑事を見、七海を見た。概ね、事情を察した。売れないナイトガールと、その尻を追う、生活安全部の警官。警察だ。
 上杉は、籠を取り上げて揺すった。しかし、それくらいで鳴き止む勢いではなかった。加藤が歯ぎしりしていた。危険信号だ。凶暴な彼は、胸に閊えが萌すと、奥歯を噛み締める癖があった。田代が彼の肩を小突いた。
 家族連れが、自動ドアをくぐってきた。
「何だ? ここも渋滞か」
先頭を進んできた中年の夫は、ひどく機嫌が悪かった。彼は顎で芳美に指図した。エレベーターへ向かう廊下が塞がっているので、開けろ、というのだ。
 芳美は慌ててカウンターから出てきた。
 何とかしなければ。
 しかし、何を、どうすればいいのか。
 まず、七海を救出しなければならない。彼女は、片腕を吊られて床に両膝を突いた、頼りない格好になっていた。
 フロントで飲食することは、本来禁止だ。寝酒を出すと言っても、ここで飲ませるわけではなく、部屋に持ち帰らせるのが通例だ。もちろん、有料だ。七海や刑事たちに、無料でサービスしていたことがバレたら、芳美は立場がない。
 それから、犬。ホテルはペットも禁止だ。刑事たちは宿泊客ではないのだが、その事情を他の客は知らない。ペット同伴を責められたら、言い訳できない。
 さらには、完全無人のはずのホテルでの、客同士の揉め事。これほど面倒なことはない。相手は誰も彼も、芳美より数段貫禄のある男たちで、とても彼の仲裁など聞き入れそうもない。こんな場合、一般のホテルなら上役を呼ぶのだが、彼にはそんな立場の人間がいない。ディバイデッドホテルには、支配人もいなければ、オーナーすら存在しないのだ。
 どうすりゃいいんだ? 
 牽制し合う男たちの間に立って、芳美はおろおろと首を左右に振った。
 沈黙の睨み合い。
「どうぞ」
まず、田代が道を譲った。目を細め、白い歯を見せた、品のいい笑顔だ。彼と連れの二人が、揃って壁側に避けた。家族連れの夫、山口明夫は、「どうも」と軽く会釈し、自分の連れを促した。
 次に、長尾が七海の腕を離した。七海は、フン、と鼻息を吹くと、バッグを肩に背負い、山口の連れと上杉の間を掻き分けて出て行った。上杉は、ロビーのソファに置いてあった籠を取り上げ、長尾を振り返った。
 山口たちが、先にエレベーターに乗り込んだ。出て行く二人の刑事の背中を、加藤が睨んでいた。
 犬の鳴き声が遠ざかった。
(つづく)

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玄関の猫|nkd34 (note.com)

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