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野原将揮『解説:音韻学~中古音と上古音』にある間違った記述

はじめに

『デジタル時代の中国学リファレンスマニュアル』に収録されている野原将揮『解説:音韻学~中古音と上古音』は、中古漢語と、上古漢語の近年の研究動向とその結果に基づく理論を簡潔かつ十分に紹介しており、初学者に有用な文章である。しかし、誤りもある。

特に見逃せないほどひどい問題を抱えているのがこの記述である。

20世紀後半以降、韻部研究における最も重要な成果は「一つの韻部に対して、母音は一つであるとは限らない」という点が明らかになったことです(根拠となるのは前舌母音仮説、円唇母音仮説、六母音仮説等と呼ばれるものですが、ここでは仮説の説明はしません)。[……]従来の研究では元部に *-an というように、ただ1種類の韻母を認めるだけでした。[……]しかし近年の研究では、元部に主母音の異なる3種類の韻母(*-an、*-en、*-on)を認めます。

野原将揮(2021: b44)

3つ目の文章だけは、ただそれだけ取り出せば表面上は正しいが、「一つの韻部に対して、母音は一つであるとは限らない」という点が明らかになったことによるものではなく、この前の文章から抱く印象のような意味ではない。

そのような成果は存在しないどころか、実態は逆で、20世紀前半までの再構では一つの韻部に複数の母音が再構されていたが、20世紀後半以降、現在に至るまで、一つの韻部には母音が一つだけ再構されるのが普通なのである。

Baxter(1992: 243ff.)は、まさに例に挙げられている元部に対して、このことを詳しく説明している。

Most researchers, however, have accounted for the finals of the 元 Yuán group (and analogous problems in other groups) by either assuming that different main vowels could rhyme with each other, or […].

しかし、ほとんどの研究者は、元部の韻母(および他の韻部における同様の問題)を説明する際に、異なる主母音が押韻可能であったと仮定したり……した。

Baxter 1992: 245

これは、かつての研究者は一つの韻部に異なる主母音を再構したが、現在(少なくともBaxter 1992)ではそうではないという意味である。

20世紀前半の再構

「20世紀前半」の代表格であるKarlgrenの再構を見ると、KarlgrenのクラスⅥ(=いわゆる元部)には3種類の主母音 *a, *â, *ă が再構されている(1933: 10–11; 1940: 19)。

上古漢語のいわゆる元部には、少なくとも中古漢語の寒韻・刪韻・山韻・元韻・仙A韻・仙B韻・先韻の単語が含まれる。Karlgrenの枠組みでは、一つの韻部から7種類(実際にはKarlgrenは重紐を無視したので6種類)の異なる中古韻母が発展したことを説明するためには、一つの韻部に複数の母音を共存させるしかなかった。

具体的には、Karlgrenの枠組みによる上古漢語の音節は大きく分けて、(A)介音を持たない音節、(B)介音 *-i̯- を持つ音節、(C)介音 *-i- を持つ音節の3種類がある。Aは中古一等韻または二等韻の由来、Bは中古三等韻の由来、Cは中古四等韻の由来である。いわゆる元部について考えると、まず中古四等である先韻への発展は、これだけが四等介音 *-i- を持っていたことで説明される(C音節)。寒韻・刪韻・山韻(=一二等韻)への発展と元韻・仙韻(=三等韻)への発展との違いは、三等介音 *-i̯- の有無で区別される(A音節とB音節)。しかしA音節が寒韻・刪韻・山韻の3種類に発展し、B音節が元韻・仙韻の2種類(実際には3種類)に発展したことを説明する手立ては、主母音の違いを割り当てるしかない。したがって寒韻・刪韻・山韻それぞれに対応する *â, *a, *ă の3種類の主母音が再構された。これらの主母音は、音韻的には異なるが、音声的には類似しているために韻を踏むことができた(=1つの韻部を構成した)と仮定された。

もう一人の「20世紀前半」の代表であろう董同龢の元部には4種類の主母音 *a, *â, *ă, *ä が再構されている(1944: 95–102)。董同龢による元部の再構は前舌母音仮説により導かれる結論を部分的に先取りしている。董同龢によれば、元部の中には、(a)先韻・山韻・仙A韻に発展するグループ(∈ *ä)と、(b)寒韻・刪韻・元韻・仙B韻に発展するグループ(∈ *a, *â, *ă)という2つのサブグループがあり、この2つは《詩經》で韻を踏むことができる(=1つの韻部を構成する)が諧声系列では多くの場合区別されるという。このサブグループの違いを母音の類似度で説明しようとした結果、主母音の数が増えることとなった。

20世紀後半初期の再構

王力

王力はKarlgrenを批判し、一つの韻部には正確に一つだけの主母音を持たせた。王力の寒部(=いわゆる元部)は全て *a を持つ(1957: 62, 93–94)。

円唇母音仮説に関して重要な貢献を行った研究者であるJaxontovの発言を見てほしい。

Карлгрен и Дун Тун-хэ в отличие от Ван Ли, допускают существование двух или нескольких близких гласных звуков в пределах одного класса.

Karlgrenと董同龢は、王力と違い、類似する2つ以上の母音が同じ韻部内に存在することを認めていた。

Jaxontov 1959

また、周法高は次のように述べている。

王力的擬音可以説是別具一格,是具有革命性的。[……]他假定上古一韵部只有一個主要元音[……]。

王力の再構は独特で革命的と言える。……彼は、上古漢語の一つの韻部には一つの主母音しか存在しなかった……と仮定した。

周法高 1969: 124

高本漢在擬構上古音時,便把古音同韵部的擬構成元音不盡相同。[……]王力[……]把上古音同韵部的擬成元音相同,而用介音來區別其中的小組。

Karlgrenは上古音を再構する際、同じ韻部に異なる主母音再構した。……王力は……上古漢語の同じ韻部には同じ主母音を再構し、その中のサブグループの区別には介音を用いた。

周法高 1970: 345

王力(1957)の枠組みでは、上古漢語の音節は大きく分けて、(Ⅰ)介音を持たない音節、(Ⅱ)介音 *-e- を持つ音節、(Ⅲ)介音 *-ĭ- を持つ音節、(Ⅳ)介音 *-i- を持つ音節の4種類がある。Ⅰは中古一等韻の由来、Ⅱは二等韻の由来、Ⅲは三等韻の由来、Ⅳは四等韻の由来である。すなわち、Ⅲの *-ĭ- とⅣの *-y- はそれぞれKarlgrenの *-i̯- と *-i- にそのまま対応する。KarlgrenのA音節が介音の種類を増やすことで2種類に分割されたのである。とはいえ、いわゆる元部では、KarlgrenのA音節を2種類に分割しても依然として王力のⅡ音節からは刪韻・山韻の2種類が発展することになる。これに対して王力は「不規則」とだけ述べて同じ *a を再構した。つまり、おおざっぱにいえば、王力の再構はKarlgrenの *a, *â, *ă をまとめて *a と省略して書いただけである。この再構の不健全さはともかく、Karlgrenや董同龢といった20世紀前半の研究者とは対照的に、一つの韻部には厳密に一つの主母音しか存在してはならないと考えたことが、王力の「革命」なのである。

Pulleyblank

Pulleyblank(1962)も、タイプA/B音節(三等か否か)の区別に対応する母音の長短の違いを除けば、一つの韻部には一つだけの主母音を持たせている。例えば、いわゆる元部では主母音は常に *ɑ か *ɑ̄ のどちらかである。Pulleyblankは、董同龢の観察に同意した上で次のように発言している。

An alternative solution would be to reconstruct a more open ɛ as well as a close e, but in view of the occasional hsieh-sheng contacts between group (a) and group (b) and the fact that they appear to form a single rhyme class in the Shih-ching, the solution in terms of eɑ, ēɑ̄ seems preferable.

代替案として、狭い *e の他に広い *ɛ を再構することも考えられる。しかし、時々グループ(a)とグループ(b)の間で諧声関係が見られること、また《詩經》では両グループが1つの韻部を構成していることから、[グループ(a)には] *eɑ, *ēɑ̄ を再構することが望ましいと思われる。

Pulleyblank 1962: 102

Pulleyblankはグループ(a)(先韻・山韻・仙A韻に発展するグループ)に *ɛ や *ä ではなく *eɑ を再構しているが(介音 *e +主母音 *ɑ)、それはグループ(b)(寒韻・刪韻・元韻・仙B韻に発展するグループで、*ɑ で再構される)と同じ韻部に属し、したがって同じ主母音を再構しなければならないからである。この文章は、Pulleyblankが一つの韻部に複数の主母音が存在してはならないと考えていたことを示している。

Pulleyblank(1962)の枠組みでは、いわゆる元部には、母音の長短の違い、介音 *-e- の有無、介音 *-l- の有無から合計8種類(=2×2×2)の韻が再構可能で、それによって中古漢語の7種類の韻母への発展が全て説明される。

李方桂

李方桂は以下の方法論的原則を明示している。

研究上古的元音系統的時候我們也有一個嚴格的假設,就是上古同一韻部的字一定只有一種主要元音。凡是在同一韻部的字擬有不同的元音,都跟這個假定不合,必要從新斟酌一番。

上古漢語の母音体系を研究する上で、我々はある厳格な仮定を持っている。それは、同じ韻部に属する字はみな同じ主母音を持っていたはずだというものである。同じ韻部に属する字に異なる主母音が再構され、この仮定に反している場合には、再検討する必要がある。

李方桂 1971: 20–21

実際、李方桂の元部の主母音は *a のみである。介音 *-j- の有無、介音 *-i- の有無、介音 *-r- の有無から、中古漢語の6種類の韻母への発展が説明されている。重紐の区別を無視していることを除けばPulleyblank(1962)とは表記が異なるだけでほぼ同じ枠組みである。

20世紀後半初期の再構のまとめ

このように、一つの上古韻部に7種類の中古韻母が含まれることについて、20世紀前半の考え方では音韻的に異なるが音声的に類似していたために韻が踏めた複数の主母音が存在したと仮定することで説明されていたが、20世紀後半には「不規則的な発展」あるいは押韻には影響しない複数の音韻要素(通常は介音)を仮定することで説明されるようになった。この転換は、20世紀前半にはなかった(少なくとも徹底されていなかった)、一つの韻部には一つの主母音しか再構されるべきではないという思想に動機づけられたものである。

BaxterとStarostinの再構

Baxter(1980)

Baxter(1980)は、表面的には、いわゆる元部に *-an, *-en, *-on の3種類の韻を再構している。この主母音 *e は、董同龢(1944)の *ä、Pulleyblank(1962)の *eɑ、李方桂(1971)の *ia にほぼ等しく、介音で説明する20世紀後半前期の方針を捨てて、一つの韻部に複数の母音を認める20世紀前半の考えに先祖返りしたように見えるかもしれない。

しかし実際には、Baxterは一つの韻部に3つの主母音を再構することを意図していない。元部は忘れて、幽部のことを考えてみよう。Baxter(1980)は、表面的には、いわゆる幽部に *-u, *-iw の2種類の韻を再構しているが、次のように述べている。

But a quick examination of the *-ôg-group rhymes of the Shi-jing indicates that rhymes between *-u and *-iw are difficult to establish. […] A careful (perhaps statistical) study of the *-ôg rhymes of the Shijīng is needed in order to establish whether the traditional *-ôg rhyme group should be split into an *-iw group and a *-u group as the proposed reconstruction suggests.

しかし、《詩經》における幽部の押韻を見てみると、*-u と *-iw の間の押韻を確立するのは難しいことがわかる。……ここで提案した再構に従って従来のいわゆる幽部を *-iw 部と *-u 部に分割すべきかどうかを確立するためには、《詩經》における幽部の押韻を注意深く(おそらく統計的に)研究する必要がある。

Baxter 1980: 30–31

すなわち、*-u で再構された単語と *-iw で再構された単語は《詩經》では韻を踏まないようなので、(それが統計的にそれが保証されたならば)いわゆる幽部を *-iw 部と *-u 部の2つの韻部に分割すべきである、と述べているのである。

Baxter(1986)

Baxter(1986)では、いわゆる幽部に関する注意深い統計的研究が実際に行われた。ここではもっと直接的なことが書かれている。

Since *-u and *-iw cannot rhyme in the usual sense of the word, this proposal [...] suggests that the You category should be split in two.

[本稿では、]一般的な意味で *-u と *-iw は韻を踏むことができないため、……幽部を2つに分割すべきであると提案する。

Baxter 1986: 258

Similarly, we can use the chi-square procedure to test the hypothesis that words in *-u and *-iw form separate rhyme categories [...].

同様に、カイ二乗検定を用いることで…… *-u の単語と *-iw の単語が別個の韻部を構成しているという仮説を検証することができる。

Baxter 1986: 269

Baxter(1986)ではこのように「split/separate rhyme category」という文句が何度も出てくる。幽部という一つの韻部に複数の母音を再構しようとしているのではなく、異なる主母音を持つ二つの韻部を想定しているのである。Baxter(1986)は清代の研究者の名前を引用して次のように述べる。

There are many other cases in which what had seemed to be a single rhyme category was divided into two or more smaller categories upon further examination of the evidence. [...] Gù Yánwǔ set up ten Old Chinese rhyme categories, as noted above; Duàn Yùcái had seventeen; Kǒng Guǎngsēn had eighteen; Wáng Niànsūn and Jiāng Yǒugào each set up twenty-one categories, Wang later incorporating a distinction of Kǒng Guǎngsēn's and making his final total twenty-two.

証拠をさらに調べた結果、一つの韻部だと思われていたものが二つ以上の韻部に分けられることがわかったケースはこれ以外にもたくさんある。……顧炎武は前述のように上古漢語に10の韻部を仮定したが、段玉裁は17部、孔広森は18部、王念孫と江有誥はそれぞれ21部を仮定した。王念孫は後に孔広森の区別を取り入れ、最終的に22部を仮定した。

Baxter 1986: 259–260

元部の話に戻ると、自身の *-en, *-an, *-on の再構が「従来の分析に反している」ことについて次のように説明している。

Another possibility, however, is that the evidence from the phonological pattern of Middle Chinese has revealed distinctions which the traditional analysis simply overlooked. The discussion in section 2 has shown how this is possible and has occurred in the past. As a matter of fact, Jaxontov, who first argued that certain hékǒu words of the Yuán rhyme group should be reconstructed with *-on, also argued that the words so reconstructed still constitute a separate rhyme category in the Shī-jīng.

しかし、中古漢語の音韻の分布から得られた証拠が、従来の分析が単に見落としていただけの区別を明らかにした可能性もある。第2節[上で引用した部分]で、そのようなことが有り得ること、そして実際にあったことを紹介した。実際、元部の特定の合口の単語を *-on と再構すべきだと最初に主張したJaxontovも、それらは別の『詩経』韻部を構成していると主張した。

Baxter 1986: 265

清代の研究について述べた部分を参照しているため主母音の数が問題なのではなく韻部そのものを問題としていることがわかる。そしてJaxontovの先行研究に言及する最後の文章は、Baxterのいう「従来の分析に反している」自身の理論が、「元部の母音は一つではない」ということではなく、「元部は一つの韻部ではない」という意味であることを明確に記している。

Baxter(1991)

Baxter(1991)は円唇母音仮説について次のように述べている。

If this hypothesis is correct, then certain traditional Old Chinese rhyme categories must be split: for example, [端 and 單], both traditionally assigned to the Yuan rhyme category, are now reconstructed with different main vowels, and must be assigned to different categories [...].

もしこの仮説が正しいとすれば、上古漢語の特定の韻部を分割しなければならない。例えば、[端 *tan と 單 *ton は]今まで共にいわゆる元部に分類されていたが、現在では異なる主母音が再構されるため、……異なる韻部に分類されなければならない。

Baxter 1991: 4

上記の文章に付けられた注釈で次のように述べている。

To say that *-an and *-on must be in different rhyme groups assumes, of course, that Old Chinese syllables must have the same main vowel to rhyme regularly. Most recent work adopts this assumption in some form, though Karlgren did not.

*-an と *-on が異なる韻部に分類されなければならないという考えは、当然ながら、上古漢語の音節が規則的に韻を踏むためには同じ主母音を持っていなければならなかったという前提に基づいている。Karlgrenはこの前提を取り入れなかったが、近年のほとんどの研究は何らかの形で採用している。

Baxter 1991: 4 note 7

この注釈は、『20世紀後半以降、韻部研究における最も重要な成果は「一つの韻部に対して、母音は一つであるとは限らない」という点が明らかになった』ことだという説明が間違っていることをかなり直接的に示していると思う。既に説明した通り、Karlgrenは異なる主母音が一つの韻部に存在することを認めていたが、「近年のほとんどの研究」はそれを認めないのである。

Baxter(1992)

満を持して出版されたBaxter(1992)は、上記の研究の集大成である。文量が多いので、Baxterが「元部は一つの韻部ではない」ことを主張した文章がどれだけあり、そのうち「元部の母音は一つではない」という意味に誤読されないような明確な記述がどれだけあるのかは調べていない。

だが、少なくともPulleyblankは書評で次のように書いている。

Baxter's hypothesis is that the Middle Chinese *e goes back to Old Chinese *i and *e in all cases and that separate rhymes need to be distinguished for these vowels within several traditional categories.

Baxterの仮説は、中古漢語の *e は全て上古漢語の *i か *e に遡り、従来の韻部のうちこの母音を持つものは異なる韻として区別する必要があるというものである。

Pulleyblank 1993: 369

Sagartの書評にも次の記述がある。

This naturally results in a significant increase in the number of recognized rhyme categories: while the standard view of OC rhyming identifies 31 rhyming categories, Baxter distinguishes 50.

[Baxterの6母音体系の]結果、識別される韻部の数は大幅に増えることになる。上古漢語の押韻に関する標準的見解が31の韻部を区別しているのに対し、Baxterは50の韻部を区別している。

Sagart 1993: 250 

PulleyblankとSagartは、Baxterが新たな韻部の区別を発見したと主張しているのであって、一つの韻部に複数の母音が存在すると主張したわけではないことを正しく理解している。

Baxter(2019)

最近の記述でも意見は変わらない。

我們的結論是:傳統的月部應該按照六元音假設看成三個不同的韻部,即 *-at(-s)、*-et(-s) 和 *-ot(-s)。[……]同樣的分析方法支持元部至少要分成 *-an、*-en、*-on 三個韻部[……]。

我々の結論は、6母音仮説によれば、伝統的な月部は *-at(-s), *-et(-s), *-ot(-s) の3つの異なる韻部とすべきであるというものである。……同様の分析は、元部を少なくとも *-an, *-en, *-on の3つの韻部に分割しなければならない……という考えを支持する。

Baxter 2019: 47

Starostin(1989)

Starostin(1989)にも同様に「韻部を分割する」という直接的な記述がある。

"новые" классы рифм, выделенные некоторыми учеными (в частности, С.Е.Яхонтовым) и нами в результате разбиения некоторых традиционных классов [...].

一部の学者(特にJaxontov)や我々は、いくつかの伝統的な韻部を分割して「新しい」韻部を設けている……。

Starostin 1989: 343–344

Класс 幽 обычно не разделяется на два подкласса. Однако можно показать, что в ДК поэзии такое разделение существовало. Если принять предлагаемое нами разделение слов класса 幽 на два класса [...].

通常、幽部は2つの韻部に分割されることはない。しかし、上古漢語の詩にはそのような区別が存在したという証拠がある。幽部を2つの韻部に分割するという我々の提案を受け入れると……。

Starostin 1989: 350

野原(2021)の誤解

野原(2021)を見返すと、BaxterやStarostinが従来の韻部を分割して新しい韻部を設けたことを、一つの韻部に複数の母音が存在すると仮定したと単に誤って受け取ったわけではなく、むしろより深刻かつ奇妙な誤解をしていることがわかる。

しかし近年の研究では、元部に主母音の異なる3種類の韻母(*-an、*-en、*-on)を認めます。この3種類の韻母は互いに押韻も通仮もしません。

野原将揮(2021: b44)

野原(2021)は、BaxterやStarostinの *-an, *-en, *-on が韻を踏まないことを前提として設定されたものであることを正しく理解しているようである。しかしいうまでもなく、もし押韻不可能な韻母が複数存在するとすれば、それは別の韻部である。誤解されているのは韻部という概念だと思われる。

野原(2021)は韻部に対して次のように説明している。

明から清初になると、陳弟、顧炎武らを筆頭とする考証学者らの手によって韻のおおよその枠組み——すなわち押韻可能な枠組みが明らかにされました。この枠組みを「韻部」と称します。

野原将揮(2021: b41)

*-an, *-en, *-on は主母音の違いにより押韻可能ではないので、この定義に従ってもこれらは別の韻部のはずである。この文章のすぐ下に最も深刻な誤りがある。

明末清初の顧炎武の十部説(10の韻部に分類)にはじまり、段玉裁による支脂之の三部分部、真文の分部、尤侯の分部、戴震の入声独立、孔広森による東冬の分部、王念孫の至部、章炳麟による隊部と至部の分部、そして王力による脂部と微部の分部というように時代が下るとともに韻部の枠組みがより細分化します。Karlgren、李方桂の段階に至って、韻部の枠組みは概ね確定したと言って良いでしょう。

野原将揮(2021: b41)

野原(2021)は「韻部」という用語について、一般的に言われるもの(《詩經》で韻を踏む単語または音節のグループ)とは異なる認識を抱いているようだが、それがいったいどのように定義されるものなのか、読者には全くわからない。

一般的に言われる用語に基づくと、「Karlgren、李方桂の段階に至って、韻部の枠組みは概ね確定した」というのは大間違いで、Baxter(1986, 1992)は、自身の取り組みが、まさに顧炎武・段玉裁・孔広森・王念孫・王力らと同様、「韻部の枠組み」の細分化であることを明示している。

ついでにいえば、Karlgrenの体系はいわゆる魚部を2つの韻部に分割するなど極めてユニークかつ批判の多い部分があり、確定したものとは言い難い。

李方桂(1971)はJaxontov(1960)よりも後の研究だがその成果を取り入れていない。Jaxontov(1960)自体に「韻部を分割」「新しい韻部」という表現はないが、既に引用した通りBaxter(1986)とStarostin(1989)は「Jaxontovは従来の韻部を分割して新しい韻部を設定した」と解釈し、そう明言している。

まとめ

Karlgrenや董同龢といった20世紀前半の研究者は一つの韻部に複数の母音を再構していたが、王力・Pulleyblank・李方桂といった20世紀後半の研究者は一つの韻部に一つの主母音しか認めないという方針から再構を見直した。BaxterやStarostinもその考えを受け継いでいる。

Jaxontov・Baxter・Starostinの取り組みは、従来の韻部を分割して新しい韻部を設定するものであると何度も明言されており、Baxterはそれが明清代の学者や王力による取り組みと同じものであると明言しており、実際そう解釈せざるを得ない。

それにもかかわらず野原(2021)は、韻部の枠組みは「Karlgren、李方桂の段階」で確定し、Jaxontov・Baxter・Starostinの取り組みは明清代の学者や王力による取り組みのように韻部を分割したものではなく、「一つの韻部に対して、母音は一つであるとは限らない」という点を明らかにしたものである(かつそれが20世紀後半の重要な知見である)と誤解している。

引用文献一覧

  • 野原将揮(2021)「解説:音韻学~中古音と上古音」(漢字文献情報処理研究会『デジタル時代の中国学リファレンスマニュアル』、好文出版)

  • Baxter, William H. (1980) “Some proposals on Old Chinese phonology” (van Coetsem, Frans; Linda R. Waugh. Contributions to historical linguistics: issues and materials. Brill.)

  • Baxter (1986) “Old Chinese *-u and *-iw in the Shi-jing” (McCoy, John; Timothy Light. Contributions to Sino-Tibetan studies. Brill.)

  • Baxter (1991) “Zhōu and Hàn phonology in the Shījīng” (Boltz, William G.; Michael C. Shapiro. Studies in the Historical Phonology of Asian Languages. John Benjamins Publishing.)

  • Baxter (1992) A Handbook of Old Chinese Phonology. De Gruyter Mouton.

  • Baxter (2019) “Further Dividing the Traditional Rhyme Groups in Old
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  • Jaxontov, Sergej E. (1959) “Fonetika kitajskogo jazyka 1 tysjačeletija do n. e. (lsistema finalej)” (Problemy Vostokovedenija, 2)

  • Jaxontov (1960) “Fonetika kitajskogo jazyka 1 tysjačeletija do n. e. (labializovannye glasnye)” (Problemy Vostokovedenija, 6)

  • Karlgren, Bernhard (1933) “Word families in Chinese” (Bulletin of the Museum of Far Eastern Antiquities, 5)

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  • Pulleyblank, Edwin G. (1962) “The Consonantal System of Old Chinese” (Asia Major, 9)

  • Pulleyblank (1993) “Review of Baxter 1992” (Journal of Chinese Linguistics, 21)

  • Sagart, Laurent (1993) “New Views on Old Chinese Phonology” (Diachronica, 10)

  • Starostin, Sergej A. (1989) Rekonstrukcija drevnekitajskoj fonologičeskoj sistemy. Izdatel’stvo ‘Nauka’.

  • 王力(1957)『漢語史稿』、科學出版社

  • 周法高(1969)「論上古音」(『中國文化研究所學報』2)

  • 周法高(1970)「論上古音和初韵音」(『中國文化研究所學報』3)

  • 董同龢(1948)『上古音韻表稿』、中央研究院歷史語言研究所

  • 李方桂(1971)「上古音研究」(『清華學報』9)

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