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ある陸上競技選手の足跡:1992-2006:競技生活:想うこと

競技生活を終え、指導者になった時に一番悩んだのが「志向」に指導を合わせること。今も悩むことはもちろんあるけれど、大分自分の中では選り分けてきた感じはする。

主題とどう繋がるかはもう少し読み進めて頂ければ幸いです。


その志向ですが、一つは上昇志向。競技志向。とにかく上へ行きたい、強くなりたい。この動機に強固に支えられ脇目を振らずに強くなろうとする選手。

これは指導するのも楽です。自分の「志向してきた経験」も活かせるし、そのまま技術や身体作りを指導し、提案していけば良い。最も自主性も高く、信頼関係も構築しやすいグループ。


一つは動機が有名になりたい、モテたいなどのグループ。金銭、承認欲求もこちらですかね。これらは強い競技志向とセットの場合もあるし、そうでない場合もあります。特に後者は「他に手段」があればそちらに目が向くこともあるので、その辺りの理解をしつつ指導、サポートしなければなりません。

一つはその競技、スポーツが好きなグループ。こちらも大まかに2つに分けると、好きだから頑張るグループと、とことん「好き」で居たいグループ。この動機の人はその「好き」を全面に出している場合は良いのですが、何らかの弾みで「好きでなくなった」という感情が出てくると難しくなってくる。

他にも色々動機なんてあります。本当にざっくりと幾つかに分けるだけで、同じ人でも複数にまたがっていたりします。ただある程度動機を知りつつ、指導、サポートの仕方を変える必要があります。

そうでないと上手くいかない。

まあ当たり前のことですよね。こうしてnoteを書かれている方々も絶対売れてやる!という人から楽しければそれで良いのだ!という人など動機や志向は様々だと思います。ちなみに私は多くの人に読んで頂きたいのでシェア、引用、サポート等大歓迎です!!


とまあ、指導する際はそういった動機や志向を前提に指導法や接し方を一人一人変える必要があります。チームを率いている場合、その招聘目的・目標に沿った方針を打ち出しますが、その中でも個別に違う対応が必要です。

とことん競技を志向するならこう。エンジョイならこう。技術練はこうで。そういった異なる志向を共存させられるよう、時間をかけてじっくりと構築せねば多様性は維持できません。ややもするとあっさり一色に染められ、居場所が無くなるグループが誕生します。

その辺も含めて指導者は現場にあたり、ステークホルダーは理解しつつ、信任する必要があります。そうでないとチーム作りはきちっとは出来ません。


★★

さて、主題に沿った話がここで登場しますが、上記のような指導を考えた時、競技者として様々なチーム、選手と接してきたことが役立ちます。神屋はどちらかというと最初の競技志向、上昇志向に裏付けられたタイプであまり「楽しさ」は重視してこなかった選手でした。

周りの承認、応援が力の源泉になることも大きく、外的報酬に因って動く部分が大きかったと思います。その時々の指導者が信頼し、起用したい!と思って接して頂けた場合に最大限力を発揮できる。

他の人から見たら単純に「勝ち抜いてきた人」と見えたかもしれません。多くの途中で去っていった仲間たちはそう見るかもしれません。でもただ単に志向の違いだったり、進路選択の違いだったと思うんですよね。

「競技」はここまでで線引し、あとは「就職」して人生を送ると考えていた人と、とことん関わろうとしてきた。ただそれだけだと思います。

だから途中で進路変更する場合は堂々とすれば良いと思うし、その道をとことん突き進む人は遠慮せずに突き進めば良いと思います。


★★★

現役時代もそうでしたが、指導者としても「勝ち残った人」と見られると結構きついものがあります。何を言っても「謙虚さがない」「上から目線」などと言われることもあります。

ただ一切の実績がない人が指導者になったらなんて言われるか。「実績がないのに」「自分たちより弱かったのに」となります。

結局、どっちであれ言われる(笑)

現役の時も確かに上にいけば行くほど「承認」も増え、下のほうが辛く見えるかもしれません。でも実際はどちらも変わらず「きつさ」は感じるものだと思います。その中身や種類は違うかもしれませんが。


だから自分自身、競技生活や人生において「誇り」と「自信」はありますが、別に上から何かを押し付けたり、アピールしようとは思っていません。ただ過去の話しや経験が誰かの役に立ったり、楽しんで頂けたりすれば良いなと思う次第。

今はどこかのチームを指揮しているわけでもありませんし、noteで書いているだけで「作家」として売れているわけでもありません。「インフルエンサー」と呼ばれる存在でもないです。

ただ書き続けたり、活動し続けないと「何者でもない自分」でしかなく、「何者である自分」にはならない。ただそれだけ。もちろん家族や様々な場面では「何者か」ははっきりしています。あくまで社会全体における、大きな世界における自分を考えた時にということ。

そうして今日もこうして記させて頂いています。

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神屋伸行/加古川優考塾/走遊Lab代表
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