近代化のなかで失ってしまったもの
ボリビアの小さな町をいくつか巡ると、だんだんとボリビアという国の輪郭がつかめるようになった。どこか東南アジアの雰囲気に近い。気候は蒸し暑くて、いたるところに露店がある。走っている車やバイクはおんぼろ。そんな町中を歩くのが好きだ。露店で洋服や雑貨を売っているおばちゃんたちは、客のことなど気にしないかのように隣同士でおしゃべりしている。道端で飲み物を売っているお兄ちゃんは、スマホをいじりながらだるそうにしている。企業努力、効率性といった言葉たちとは無縁の人たちがそこにはいた。
そんな彼らを見ていると少しうらやましく思った。日本でこのような光景を見かけることはあまりない。品物を買うときはスーパーやコンビニに行き、綺麗に陳列された商品たちから自分が好きなものを選ぶ。レジでは店員と最小限のやり取りしか交わさず、買い物を済ませる。今はオンラインで商品を買うことができるので、人と顔を合わさずとも画面一つで買い物ができる。利便性、効率性などを追い求めていった結果、日本の私たちは今の生活を手に入れた。
そして、何かを失った。それは「余白」だと思う。商品を買うだけだら、オンラインで事足りる。でも、個人の露店に魅力を感じたのは、そこにいる人たちと会話ができ、五感が刺激される状況に身を置けるからだと思う。人との繋がりを実感し、その場にいる人たちとの会話、空気を楽しむ。そして、時には新しい発見がある。
また、露店の人同士でのおしゃべりやスマホをいじってやる気なさそうにしている人たちにも余白がある。切羽詰まっている状況から解放され、心身ともにリラックスしている状態。お金は儲からず、その日暮らしの人もたくさんいると思う。だけど、自分の目には彼らはいきいきと楽しそうに働いているように見えた。体を無理やり動かして結果だけを追い求めるのではなく、自分のペースで自然に動いているように見えた。そこには人とのつながりもあり、人間味溢れる表情がたくさんあった。
少し頑張りすぎな日本人は、ボリビアに生きている人々から学べることがたくさんあるように思う。