〈日記〉最近何をしているか;専門性と一般性
連日、読書サーバーのボイスチャットにて通話している。僕はコミュ障なのだが、僕以上のコミュ障もそこそこ多く、相対的に僕がマシに見える希有なサーバーである。
日記 2024/11/10
読書サーバーはDiscordを使ったコミュニティで、総勢3000人程度が参加している。しかし、ボイスチャットに参加するメンバーは固定化しており、ほぼ名前を覚えられた。この身内化がサーバーにとって問題かというと、結局はボイチャ以外のテキストチャンネルでは多くの人がやり取りしていることから、あまり問題ではないのではないかと思う。それで、僕もしばらく参加した結果、常連メンバーに組み込まれた。
それで、具体的なメンバーについて語るのもアレなので、僕自身の話をしよう。まず、僕は扱える話題が偏りすぎていて、興味のない話題にはほぼ無言になる。それで、改めて、学際的に色々な分野に精通している必要があると思った。特に、昨日は第二次世界大戦の開戦における、「ハルノート」に関する議論が行われていたが、まるで知識がないため何もコメント出来なかった。この辺は、高校中退のダメージが大きく、基礎教養の足りなさを痛感させられた。
一方で、高度な専門性も達成したいという気持ちも強い。それは、人に煽られている側面がある。例えば、アカデミックな領域において、新書を下に見る風潮は未だに健在である。
引用で「学問に興味があって新書」がディスられている。僕は、幅広く学習する際に新書ほど有効な手段はないように感じるのだが、一方で、より専門的な議論に通暁するには、やはり専門書か論文を読み漁る必要がある。ところで、そのような専門的議論に精通しようと思った範囲は今のところ少ないので、新書ばかり読んでいる。だが、このような煽りを真に受けるので僕は教養主義者になったのであり、従って専門書もいくつか読む気にさせられている。
要するに、学際的な学習と、専門的な学習で、キャパオーバーなのが現在である。僕は日常会話を楽しむ為には前者が必須なのだが、一方で、後者は学問者として必須なように感じられ、それでは何を専門として突き詰めようかと迷う限りである。無論、ひとつはカトリック神学なのだが、これについての学習は停滞期、もう少し言うとADHD的「飽きた」期に入っている。なぜなら、主要論点は押さえてしまって、語るのに苦労しないからだ。
一旦、戻そう。このコミュニティの良い所は、上記のように、通常の日常会話では出来ないような、専門性の高い会話が出来るところだ。趣味として学問をやっていても、僕の大学では、それについての話題を語る事自体がマウンティング的になってしまうので、その点、高学歴層が羨ましいが、このコミュニティではそうはならない。皆がそれなりに学術的教養があるので、知識・学問マウント的にならない、ように思える(思えるのだが、実際どうなんだろう?)。
他にも書ける事は色々とあるのだが、記憶をサルベージするのが大変なのでこれぐらいにしておこう。なんにせよ、居心地の良いコミュニティにいられて満足している。以上。