スヤスヤ教批判:信仰を軽んじる者たちへ

 この記事の著者はカトリックの求道者である。求道を始めたのはつい最近だが、キリストを信じてからはもう一年以上が経つ。

 まず、大前提として、僕は日本のキリスト教徒を代表出来る立場ではない。なので、あくまで一人の信仰を持つ者として、この騒動をどう感じたか、というレベルの話をしよう。僕の意見は、恐らくキリスト教内部でもレアかもしれないし、もしくは、多くのキリスト教徒が思っているけど、言わなかった事を言ってしまう結果になっているかもしれない。ともかく、僕個人が責任を引き受けよう。強調するが、一般のキリスト教徒はこの意見と関係がない。むしろ、皆は争いを起こしたくないと思っている可能性が高い。

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 「スヤスヤ教」に関する言論を随時チェックしている。スヤスヤ教批判においては、幾つか既にまとまった論が提出された。僕がわざわざこれに加勢したところで、僕は宗教社会学だったり文化人類学辺りの知見がない。単なるカトリック求道者のバイアスがかかった一意見とみなされるような論しか書けないような気がしている。とはいえ、ひとまず言語化してみよう。


スヤスヤ教は宗教を馬鹿にしている

 宗教は、「宗教上の理由」で、社会活動を断る事が出来る。それを我々もやりたい!というのが彼らの主張で、それを元に作られたのがスヤスヤ教だ。この部分に痛烈な批判を浴びせたい。例えば、私は今は求道者なので、今の所、主日の義務はないが、洗礼を受けたら義務が生ずる。主日の義務とは、カトリック信徒が毎週日曜日にミサに通う義務である。無論、義務がなくとも、基本的には毎週行く。

 彼らは、カトリック信徒が日曜日は働けない、と言った時、宗教上の理由で休むのは特権的だ、というのかもしれない。それに対して僕はこう言おう。では、「身内の不幸」「家族の葬儀」で会社を休めるのは何故だろうか。それは、葬式に参加するのは、文化的・社会的義務であり、「果たすべき責任」としての側面が強いからだ。また、当然、家族の葬儀においては、仕事よりも価値を持つのは明白である。個人へのアイデンティティにも直結している。

 これらは、全て主日のミサで日曜日に休む理由と同じである。それは、文化的な義務で、道徳的に果たす責任であり、仕事より価値を持ち、アイデンティティに直結している。宗教者でない人にとって、「宗教が仕事より価値を持つというのはおかしい」と思うのかもしれない。しかし、それは宗教を全く理解していないからだ。端的に言って、宗教とは、その人を規定するような力である。無宗教の日本人が、イエスがキリストである事を信じる、という時に、そのような「物語」に体を依拠する事の、本質的意味を理解していない。

 宗教が、単なる道具にしか思えなくて、他者の信仰に価値を認められないなら、あなたの最愛のぬいぐるみをナイフで刺して殺せるかを考えた方がいい(なぜ刺せないのか?単なる綿だろう?)。信仰を捨てる苦しみは、そのレベルではない。イエスの使徒達は、拷問にかけられ、最終的には死に至るまで信仰を守った。それ程に、(無論、信仰のレベルにもよるが)信仰とは重いもので、命を捨てられるのが信仰だ。単に、自分が救われるだけではない。もし推し活を宗教というなら、その推しの為にあなたは命を捨てなくてはならない。

[13] 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 [14] わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

ヨハネによる福音書 15:13-14 新共同訳

 もちろん、命を捨てられる程に信仰が強くない人もいる。しかし、そこまでの信仰でなくとも、命を投げ出さずに信仰を投げ出してしまったら、とてつもなく苦しむのが信仰なのだ。それ程までに信仰というのは重要で、それを理解できないなら、葬式という理由で休むのもやめるべきだし、死体を野ざらしにするべきだ。つまり、信仰というのがそれ程までに重要だから、結果として、宗教上の理由というのが成立するのだ。スヤスヤ教は、結果を生み出す原因なしに、表面的な権利だけを享受しようとしている盗人の発想、信仰者への侮辱である。

聖地ネルサレムについて

 どうも思わない。間違った原点から出発したものは、基本的には過程においても間違う。元が宗教を馬鹿にしているのだから、ネルサレムも同様で、エルサレムを軽視しているのは当たり前の事だ。日本の信仰者を軽視しておいて、世界で戦争が起こっている事には配慮するのも、単なる日和見主義に過ぎない。単に、犯した罪の大きさが大きくなっただけだ。

敬虔なクリスチャン

 この一連のポストは実に面白い。滑稽さが極まっている。キリスト教徒のロールモデルは誰か?全く抵抗せず、弁明すらせず、無罪の罪で十字架にかけられ殺されたイエス・キリストである。キリスト教徒の殆どがこの話題に徹底抗戦しないのは、イエス・キリスト的に、侮辱されても抵抗しないのを理想とする、極めて優れた人格者だからである。ところで、このようなある意味での無抵抗主義は、キリスト教内部でも議論がある。即ち、正義に反する者まで、許すべきか?そもそも、許すべきなのはどこからか?過ちを認めもしない者を許すべきか?僕は少なくとも、批判はするべきだと思っている。イエスも当時のパリサイ人を批判した。言葉での抵抗は、心で許す事とバッティングしないと思う。

 「我々クリスチャンは争いを好みません。隣人愛を追求する」。よって、批判されないし、キリスト教徒は批判しないべきだよな?的な発想。こういうのもキリスト教内部における上記の議論を無視しての言いたい放題でしかない。

宗教戦争の覚悟があるか?

 「僕たちは他宗教に寛容」と明示すれば、布教活動がなんの対立もなく平和的に行えると思ったら大間違いだ。一神教の信仰を持つ人にとっては、とてつもない偶像崇拝、つまりナンセンス、もっと原理主義の人からすればサタンから来るものと見られる覚悟は出来ているのだろうか?皆が平和的な宗教と思っている仏教から見ても、大抵の仏教徒はナンセンスと捉えるが、争いを避ける為に何も言わない人が多いだろうと予測する。

 他の幾つかの批判記事を見た。

 根本で言われている事はこうだ。「自分が何をやっているか分かっているのか?」である。これを僕も最終結論としよう。

[34] 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 [35] 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

ルカによる福音書 23:34-35 新共同訳

 日本で宗教勢力が弱いので、やりたい放題出来ると思ったら大間違いだ。根幹は宗教への蔑視の癖して、自分たちは宗教として守られるべきとは通用しない。私は批判者に連帯しよう。それでは。

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抜こう作用
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