〈評論〉「来て、観よ」:短文10選
2024/11/07 評論
社会構築論においては、「私の考え」にすら責任を取らなくてよくなる。「フェニミズムを私に怖いと思わせたのは誰か?」では、外部からの刺激に反応する「主体」はいないのか?単なる機械を自認している、やからが、口を開かないで欲しいし、主体がない人間と話したいとは思わない。
低所得男性がリベラルに見捨てられているのは本当。フェミニズムをリベラリズムは断絶しなければならない。差別の典型パターンを当てはめる論理は、実のところ単なる思考停止で、哲学を放棄している。人口の5割いる分際で、マイノリティを名乗れる厚かましさが羨ましい。
メタ認知、などを掲げて、その結果、過度に自省的になるASDなど馬鹿らしい。客体が明示もしてない事を理解しようとするのは、単に自我を拡大させているだけだ。仕草から読み取るのはともかく、嫌いと言わなければ、嫌いと思ってないと思えばいい。その上で、価値のない忠告は、排除します。
フェミニズムやら独自の正義感をインストールすると、僅かな刺激で発狂する狂人になる。他人の前に自分を省みろ(マタイ7:3-4)。責任論は嫌いとして、本当に何割責任があるかは、分からない。だから、全てを受け入れるべきだ。しかし、これは男性でも同じだ。我々は猛るべきだ。
We occasionally blame our friends, but at the same time,we have to think of self bad states that are allowed ourselves.
人との関わりによって、ダークサイドに寄る、もしくは、内心思うところが生まれる。類は友を呼ぶを回避しなければならない。とはいえ、全く僕とかけ離れた人間というのは、とどのつまり、つまらない人間ということだ。だから、面白いこの人達とやっていかなければならない。
例えば、個人的な考えから、人に反論するのは、共感能力がないのだろうか?ところで、大抵の人間は平和に暮らしているが、そのもとで生き地獄も同時に作られている。結局は、お花畑の陣取り合戦での手持ち札に過ぎない。核が落ちれば、皆死ぬ。
我々は、任意の制定者になれる。それによって、理論体系の支配から解放される。結局は、概念を成立させるための体系を作ればいいだけだ。そして、その概念が気に食わないなら、不採用にすればいい。否定はできない。なぜなら、それはこの世に存在する(からだ)。
僕から見れば、大抵の意見はナンセンスなのだから、重要なのは許しであって、僕が許す側になる。というか、議論になる度、イチイチ人格否定していくわけがない。自分の意見がない人間は、その実、もっとも狭量で、それは単なる集合体としての人間だからだ。
1%の高貴さでも尊べ。更に、もっと多くの高貴さを尊べ。確かに、(彼は)道を誤らせるものなのか?時間は存在しない。今、僕が彼のために祈るのは、意味があることなのか?そうだとしたら、いや、彼は望んでいない。でも、僕は、カタルシスを捨てて、苦しみの中で祈らなければならない。
注釈
「フェミニズムを私に怖いと思わせたのは誰か?」という記事を念頭に置いている。社会構築主義とは、事柄を社会的に作られ、変更可能とみなす立場。要するに、社会を有機的なものとして見て、それに強く主体を認めるので、それに相応して、個人の主体はそれに対する構築物になる。
そのような人物が多いので。
彼とは、ニーチェである。