豊崎由美さんの芥川賞ポストについて
導入
「芥川賞」で検索して、安堂ホセ氏への授賞に怒って「芥川賞なんてくだらない」みたいなことを投稿してる皆さん、安心して下さい、あなたがたは文学から選ばれてませんから。どうか、文学のない世界で頭の悪い愛国精神を発揮なさっていて下さい。
— 豊崎由美@とんちゃん (@toyozakishatyou) January 16, 2025
あと批判する際は読んでから、ね……あ、読めないか。
このポストに批判の嵐が吹き荒れている。
この文学会の選民思想どうにかならんの。
— GIJA星垣 (@b0m0v) January 16, 2025
あと安堂ホセさんも「読まないで差別本と決めつけていいし、出版キャンセルしたっていい」って言ってるよね。 https://t.co/69NnvJa3Au pic.twitter.com/XYywqT6Cui
文学側の人間が文学というのを庶民には分からない崇高なモノだと捉えてるからかな?
— 名前なんてないけど (@WXL4KjbJYbvjAGf) January 17, 2025
「あなたは文学に選ばれていない」というセリフに如実に現れてる https://t.co/E6hyKpjy1r
端的に言おう。集合的な庶民(大衆)においては、自我というものは剥奪されている。よって、当然、文学という機微が分かる筈がない。そして、もし、個人が、文学を読めないという事でルサンチマンを吹き上がらせているのだとしたら、それは大変に恥ずかしい事だ。
文学に限らず、読書というのは自分の操る事のできる言語を増やす。これは語彙力というだけの話ではなく、論理の構成や、世界観そのものへの影響である。つまり、読書をすればするほど、世界観はより多元的になり、世界は複雑怪奇になり、自分の通用する世界の狭さを知り、もしくは自分の単純な考えはとても貧しいという事を知る。
ここまで書いた事に、例えば君たちは「豊崎由美にはそういった謙虚さがない」といった要旨の事を、一秒で考えつき、一秒で煽り口調にしてポストするとか、そういった行動を取る。これこそ、まさに自分の単純な考えの貧しさを理解していない行動だ。
論点整理
芥川賞において、左派的な政治的主張を行っている人間が、そのような作風で受賞した。その事の是非を付けるには、まずその文学的価値を判断する為には読まなければ分からない。こんな事は当たり前の事だ。そこにおいて、受賞作家が「トランスジェンダーになりたい少女たち」を「読まなくて批判していい」と言った事を、そのまま適用して議論できるのか?もちろん、単純な考えでは、三段論法が成立しているかのように思えるだろう。問題なのは、次の部分である。
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このポストを冷静に読めば、安堂ホセ氏が以下の主張をしている可能性に思い当たるだろう。即ち、「①基本的には本は読んでから批判するべきである」「②が、どんな本でも読んでから批判しなければいけない、というわけではない。特定の文脈においては読まずに批判する事は勘案されるべき」(「③そして、特定の文脈というのは、単に恣意的なものではなく、ある種の根拠を付けて線引きされる」)。このような主張と解釈した場合、重要なのは、③の線引きが、安堂ホセ氏の本において当てはまっているか、正当な根拠があるか、ということである。
ここまで説明した事で、豊崎氏の主張である①批判するなら読むべき、という点を擁護出来たように思う。
もっとも、単純な論理の使い手は、上の説明を聞いても、「詭弁を弄された」としか感じないだろう。それは、本を読まない事により、そもそも物事の複雑な捉え方が出来ないという思考能力の問題である。順当に行けば、文学性や、芥川賞に相応しいかを判断するには、読むべきなのは当たり前だ。しかし、「著者の過去ポスト」を引っ張ってくればごった返しが許されると思い込んでいる。当然、こういう人達が、「文学から選ばれていない(=世界の複雑性を希求する文学の世界に相応しくない)」「文学をどうせ読めないだろう」という指摘をされるのは至極当然に思える。
騒動への感想
もし、「選んで本を読まない」のならば、それは各人の自由だが、現実としては「本を読めない」無能力者が大量にいる。今回の件で分かった事は、やはり単純に教養コンプレックスを刺激されて発狂している層が大量にいるということのみである。コンプレックス、ルサンチマン、嫉妬、なんでもいいのだが、それをそのまま発露させたら大変お恥ずかしいという事に気付けないものなのだろうか。端的に言って、主張の動機は、正当性を担保はしないが、正当性に影響は及ぼす。嫉妬感情の発露として発話された言葉は、大抵の場合ナンセンスである。
根幹において、「文学が読めない」自覚があるのであれば、それはその点においては負けていると素直に思えばいいだろう。それを、「文学は本来万人に開かれるべきもので〜」とか、「文学が読めたところで、真っ当に働いている人の方が何倍も~」とか、必死に開き直りをしようと思うから頭がおかしくなる。素直に、本が読めないのがコンプで辛いんです、でいいだろう。苦しみに向き合ってください。以上。
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