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【映画評論】インデペンデンスデイに見る終末論とアメリカニズム

 駅のトイレの大便器は底が浅い。僕はそのたった一文を書き留める為に、このアプリを開いた。次の電車が来るまでには、8分程の時間があった。僕は、僕の為にトラッキングがオススメしてくれた記事のリストを今朝見た気がして、そのリストはどこからアクセス出来るんだろうと考えた。正に、プラトン曰く想起(アムネーシス)という言葉が相応しい営為をしていたのだが、残念ながら脳内記憶へのアクセスは失敗し、今になってもそのリストがどこのものか分かっていない。

この文は後に挿入したものだが、この記事の前半はエッセイなので、映画評だけが観たい人は読み飛ばしてくれて構わない。目次を提示しておくので、どうぞ。


 トイレを出て、イライラしながら電車の待ち時間を過ごした。この電車は乗り換え必須だった。そのお勧め記事のリストは、確か僕の記憶では、ご親切にも、メールで寄越されていた筈だった。そして、メール欄を漁っていると、改めて、ご親切にも、僕の今月の行き先(立ち寄った飲食店や降りた駅を含む)がまとめられたメールが送られてきたのを発見した。グーグルはこれを「ハイライト」と称しているが、率直に言って、ここまでストーキングされているものだと感心した。

 それで、もう夢の事だと諦めるかどうかを迷いつつ、Xを一通り見て、遂に諦める決心をした。どうせ、形式が違うだけで、お勧めしてくる記事はホーム画面を一番左にスワイプした時に出てくるものと同じだ。

 こういった何気ない日々の事についてしか書く事が出来なくなっているのは、僕にとって良い兆候だ。有り体に言えば、幸せな日々。学校に通い、家にいる時は読書をして過ごすだけ。しかし、それでは実りも少ないのか?そんな事はない。例えば、今日は映画を観た。それなので、映画のことについて書こう。

【評論】インデペンデンスデイ

 今日は、五限の英語コミュニケーションで、『インデペンデンスデイ』を鑑賞させられた。これは、簡単に言ってしまえば、エイリアンが地球に襲来して、アメリカを中心に世界各国が人類の生存をかけて闘う、そういう映画だ。そこで、この手の映画における、紛うことなき事実が一つある。それは、エイリアンなどというものを出した時点で、大抵のものはB級チックに成り下がるということだ。

 勘違いして欲しくないのは、この映画は素晴らしかった。スコアなら80を、ランクならAを付けたい。物語の主人公となるホイットモア大統領は、若いが(30代くらいだろうか)、エイリアンが襲来する前、支持率は落ち込んでいた。エイリアンが襲来し、最初は和解を申し込むが、これを拒絶され(歓迎機体は木っ端微塵にされた)エイリアンの主砲砲撃によって主要都市は壊滅。戦闘機による反撃は謎のバリアに防がれて失敗。しかし、人類はまだ諦めなかった。技術屋のディビッド(主要登場人物)による、コンピュータウイルスによる最終反撃を控え、ホイットモアは演説する。

 彼の演説は、アメリカの独立記念日は、人類の記念日になる、というような内容だ。なぜなら、人類がエイリアン相手に闘い、生存を勝ち取ったのだから。もしくは、この機会において、人類は団結しよう。対立を精算して、我々人類は共同の理念を持てる、とか、おっと、この辺は完全に僕の解釈が入っている。とにかく、ヒューマニティ、の皮を被ったアメリカ中心主義、神の国の到来を地上に待ち望む敬虔な信徒の登場だった。

 確かに、この美しい人類の団結は、最終的に成し遂げられなければならない理想のような気がしてくる。しかし、この映画で忘れてはならないのは、災害級の敵であるエイリアンの襲来によって、ようやく人類が一致団結した、ということだ。無論、これはそういうフィクションなのだが、フィクションにおいても、人類の団結は、敵なしでは成し遂げられなかった事を意味する。カール・シュミットは「政治的なるものの概念」の中で、政治の本質は敵と味方を区別する事だと看破した。そりゃあ、化け物が出てくれば、ひとまずはシリアだろうが、パレスチナもイスラエルも一度は味方と区分されるだろう。エイリアンが粉砕された後、人類がまた世界規模の戦争を始めないなどという希望的観測は存在せず、もしくは、現実にそのような対外的化け物が存在しない我々の限界を示している。

 この根底にある、アメリカの楽園観は、それこそ、聖書、ヨハネ黙示録のような、破滅的蹂躙の先に到来するものだ。なぜ破滅が必要かというと、それは浄化であり、かつての間違っていた世界は壊滅する必要性がある。その後、正しい者だけが楽園に導かれる。『インデペンデンスデイ』においても、ホイットモアの忠告を聞かなかった妻である、マリリンは死ぬ。この一瞬のシーンにある種の因果応報性を見た僕は、改めて、福音派の理論が間違いである事を願ったのだが───。とにかく、彼らが想定している神の国は、日本人の想定するような甘いものではない。

 先日、Wikipediaで『千年王国』やら『キリスト教終末論』に関するページを見た。そこで、ディスコードの友人に、この記事が『空想的社会主義』と同じカテゴリに入っている事を、キリスト者らしく自虐したりしていたのだが、一つ気になった記述があった。それは、第一次世界大戦の時、人々は神の国の到来だと騒ぎ立てたらしいという事だ。とここまで書いて、調べたら、そのような記述が見当たらない。よって、僕の妄想である可能性が出てきた。とにかく、実際に人々が神の国を待ち望んで騒いだかは怪しくなったが、当然、戦争が終わった時に来たのは神の国ではなく、第二の戦争だったというのは事実だ。

 あのような規模の戦争が起こっても、再臨しなかったキリストと、到来しなかった神の国。それを未だに待ち望む大勢の原理主義者。僕はキリスト者であるので、このような希望の王国について、日々考える事がよくある。神の国を信じたところで、百害どころか一害もない。それ故に一旦は、パスカルの賭けのように、信じていた方が得だという理由で信じてもいいようなものではあるとは思う。ところで、もし、本当に神の国が到来するとすれば、それは人類の完全な破滅によってだ、という強い確信がある。

 我々は恒久平和を望む。その為には、前段階として、全て人類が一致する必要がある。しかし、人類の一致は有り得ない。人類は常に敵を求める。よって、我々の恒久平和は成り立たない。むしろ、全てがゼロに化した時、逆説的に成立するのが神の国だ、と思う。ここまでの推論は極めて雑だが、一旦これだけの推論で済ませるとして───、僕はこのような破滅を全く望まない。むしろ、僕が望むのは、連綿と繋いできたこの存在世界の永続、永遠の地上と、我々がまた帰って来れることだ。

 しかし、この永続的な、それでいてチンケな我々の地上に、僕のように希望を見い出せる人は少ないだろう。だからこそ、希望を掲げる手段としてヒューマニズムがあるのだ。誇大妄想じみているのがほんの少しのマイナス・ポイントとして、ホイットモアの演説は胸を打つものがある。ヒューマニティをかなぐり捨てて、アメリカ第一主義を掲げる大統領にとって、神の国とはどういうものかを訪ねに行きたくなった。

 現実世界の我々に、このような希望的展開は存在せず、むしろ戦乱の世の中に再び身を投じようとしている。希望も何もない悲劇的な結末を迎えない事を祈って、もしくは、エイリアンより余程害悪な最悪の核兵器によって地上生物が殲滅されない事を祈って、僕はカトリック求道者らしくロザリオを捧げよう。ところで、もちろん、祈る以外にも出来る事は山ほどある。一つは、幸せな日々に感謝して、気が大きくなったら、立ち寄ったコンビニでお釣りを丸ごと募金箱に入れてやる事だ。一人でも多くの命が救われるように。あと、浅い大便器によって、飛び跳ねた水が尻を濡らしても、あなたの友人と会う時は、全て忘れて、笑顔になって会う事だ。

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 ところで、この映画を題材にスピーチをさせられる事になっている。僕は、前半部分は、アメリカ的フランクなコミュニケーションへの賞賛、から一転してアメリカ中心主義への批判、という一貫性のないスピーチを書いた。何しろ、僕は連日ChatGPTに文章を読み込ませているのだが、しつこく僕の文章の一貫性のなさを指摘されるのでね。

 これを書いているうちに、ついに帰宅した。映画評になってしまったので、その旨をタイトルに示して、終わりにしよう。以上。



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