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無駄と資本主義・退屈と刺激

資本主義無駄で成り立っていると思う。本当に人間が生きる上で必要なものだけで世の中が成り立っていたら資本主義はこれほど繁栄をもたらさなかっただろう。街を散歩するとそんなことを思う。ではなぜ人は無駄に対してお金という価値を支払うのだろうか。それは退屈刺激が関係していると思う。「退屈は人を殺す」というがあれは本当だ。常に刺激を求める脳に支配された人間にとって退屈とは大きな敵であるのだ。けれどもいつまでたっても刺激は満足を与えてくれない。もっと、もっととさらなる刺激の奴隷と人は化してしまうのだ。そして資本主義はさらに肥えていく。

話は変わるが、以前たまたま読んだ記事で、退屈を対処するための良い方法は芸術に触れることであるという内容が書かれていた。それに私も賛成する。芸術やアートによってもたらされる刺激は、アルコールやマスターベーションのような簡単に得られる刺激とは異質であり、心地よい刺激が持続的に体感できる。安易な形容に頼るのであればそれは”高貴な”刺激である。

ではこの芸術から得られる高貴な刺激とそれ以外にはどんな違いがあるというのだろうか。そこには”人とのつながり”というものが強く関係してきそうだ。安易な刺激は、刺激を得ることが目的化してしまっている。そして、その目的は短期的・一時的に満たされてもすぐまた欲求不満となる。いい例が薬物だ。それに対して高貴な刺激は刺激は付属物にすぎず、その本質には人とのつながりがある。芸術はかならずその過程で人が介在し、ある意味芸術・作品を通してみた人とコミュニケーションがとっていく。作品が人に見られて初めて完成するというのはここから来ていると思う。こうして芸術に触れることで作者との目には見えないつながりが生まれ、私たちの心を動かしていく。ここで得られる喜びが私たちを退屈から遠ざけてくれる。

こうして考えてみるとやはり人間とは人との関わりを必要とする社会的動物であることを改めて強く感じる。そしてこのコロナ化で隔離された私たちは本能的に強いストレスを感じ苦しんでいるのだ。こんな時であるからこそ私は芸術やアートをより全面的に支援し、押し出していくべきだと思うのだ。しかしながら利益追求最優先の資本主義社会の中でそんな声は容易にかき消されてしまうのかもしれない。


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