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価値

人の価値とはなんなのだろうか。
資本主義の中で、市場原理が浸透した社会で私たちの価値は需要と供給によって測られる。多くの人に求められる人、多くの人が求める人、やがてそれはステレオタイプ化し、一般化されていく。そして、その先には激化した競争が待っている。
誰かよりも背が高い。誰かよりも運動ができる。誰かよりも勉強ができる。いい学校に行って、いい会社に入って、出世する。お金を持っている。有名である。綺麗な人、カッコいい人。そんな人と付き合っている、結婚する。子供が優秀である。次はなんだ?老人会の役職?葬儀に来る人の数?そんなことの繰り返しだ。誰かに勝つことが市場原理の中で勝つことであり、私たちの勝ちなのだと、私たちは染み付いてしまっている。資本主義が、市場原理が隅々まで私たちに浸透している。
そんな私たちに今更、ナンバーワンではなく、オンリーワンだと、自分らしくだと言っても、それはただの綺麗事にしか聞こえない。勝つことが全てだという洗脳はそう私たち簡単には解放してくれない。
私たちの価値とはなんなのか。価値規準を私たちは今まで外部に委託し続けてきた。その代償は思ったよりも大きい。私たちはなにも自分に価値基準を持たない。いや、持ってはいけないと経験的に教わってきた。それを今更、どうやって自分の中に価値を、価値の基準を取り戻したら良いのだろうか。嘆いてばかりでもいられない。
そもそも私たち(私)は、自分で自分の価値を認められるほど確かなものを持っていないし、認められてもそれはとても危ういものだ。結局人は人を通しでしか自分の価値は測れない。でも、今までのように外部に価値基準を持つのではない。あくまで価値の規準は自分の中に持つ。自分はこのような人間だ。こんなことが好きで、こんなことが嫌いで、こんなことに心動かされる。そして、そんな自分を認めてくれる環境、コミュニティを私たち持つべきであり、探し続けるべきなのだ。人は人がいなきゃ生きていけないし、自分の価値なんて感じられない。そう私は思う。時代が変わり、情報技術が発展し、あらゆるものが目まぐるしく今この時も変化をしているこの時代で、コミュニティのあり方も大きく変わり続けている。自分の居場所を作る。それは意外とそれほど困難なことでもないのかもしれない。そんな希望を持っている。
競争にはもうつかれた、誰かに勝ち、誰かに負けることに一喜一憂するシステムには嫌気がさす。それならば、全力で自分の居場所、世界を作ろうじゃないか。この広い世界のどこかにそんな場所が一つくらいあっても誰も怒らないだろう。

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