Memory of New York City
何番ラインに私は乗っているのだろう。地下に激しく鳴り響くアルミ缶のような地下鉄の走る音とオレンジ色の不規則に配置された座席に囲まれたわたしは不覚にも眠りに落ちていた。窓の外をみるとちょうど地下から顔をだし、マンハッタンのきらめく夜景をバックにブルックリンへ地下鉄は走り続けている。時刻は午前一時を回った頃だろうか。あまりの人気のなさに不気味さを感じる。それにしても先ほど見た映画はよかった。まさかニューヨークのさびれた映画館で(それは本当にねんきの入った小さなものであった。)英語圏以外の映画を見ることになるとは思っていなかった。"Memory of Murder"。画面に映ったのは見慣れたアジア系の主人公。しまった。アジア映画を見るなんて雰囲気が台無しだ。けれども今更出るにはもったいない。思いとどまり私は映画を見続け、気付いた時には興奮とともにエンドロールを眺めていた。こんなにも素晴らしい韓国映画があったとは。今思うとそのころから確実に韓国芸術はその実力をつけ、本日躍進の前兆を示していたのかと感心する。いやむしろ私が気付いたころにはとっくにブームの火がつき始めていたのかもしれない。そんなことを考えていると今日の日本芸術はどのようになっていくのかという見通しの悪さ、とりわけ映画に限ればあと何回学校一のイケメンや美女に恋をしたり、けなげなヒロインが死んでいくのを見なければいけないのかと胃もたれがする。
それにしてもニューヨークの地下鉄はなぜこんなにもうるさく荒々しいのか。これが日本であったら毎日苦情が寄せられているはずである。そんなことを考えているとまたまぶたが重くなる。まぶたの奥の暗闇の中で、首無しどりが躍っている。なんて華麗にステップを踏むのだろうか。それをみて皆が金貨を投げては、うさん臭い大きなハットをかぶったひげの男がその金貨を拾ってはハットの中に入れる。戦時中のアメリカの"I want you for U.S Army"とポスターの中で指さす男にそっくりだ。何のために彼はこんな華麗にステップを踏むのだろうか。そう聞くと首無しどりは”それが一番楽なのさ”と答えた。
いけないしばらく目をつぶっていた。気が付くと私はニューヨーク近代美術館の一室にいた。おかしいな、私はブルックリンにある狭い刑務所のようアパートに帰らなくてはならないのだが。それにしても、目の前にある絵画は私の目をくぎ付けにさせる。”作者:サルバドール・ダリ”どこまでも広がる大地に、ほかに誰も存在しないような孤独な寂しさと、世界が終わる前に最後の力を振り絞って見せてくれているかのような美しい夕日という精神が崩壊しそうな世界観に私は惹きつけられとらわれてしまっていた。時間という概念がゆがみ、時計たちは皆が口をそろえて「時間なんて資本主義の奴隷さ」と悪態をはいて死んでいった。こっちにおいでと誰かがささやいた。私はこんな孤独では生きていけないと断った。
タイムズスクエアの真ん中でブロードウェイミュージカルが開演した。ニューヨーク中の歓声と拍手が鳴りやまない。トレーダーが証券をばらまきながら、最上階が見えないほどの高層ビルを指して僕のものだ!と叫んでいる。それを見て観客のまた歓声と拍手が鳴りやまない。たくさんの人たちがステージに上がり楽器を吹きながら、絵をかき、歌を歌い始めた。観客と明かりは一斉に消え、弱い光のスポットライトが彼らを照らした。彼らは舞台を去っていった。
「次は渋谷です。」アナウンス音に目を覚ました。いけない、いけないまた余計なことを考えてしまった。目の前スクランブル交差点が現れた。今日も渋谷はきれいにあるべき場所におさまっている。ニューヨークの地下鉄の乱暴でガサツな音が何だか恋しく感じた。
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