マルクス・思考メモ

宗教批判
フランス革命による自由主義
ブルジョアとプロレタリアート
というような流れ。

階級の闘争と解放の歴史

解放の本質は、人間の解放つまり本来的な人間性の回復か。
だがそもそも奴隷は悪か。自由こそ善であるのか?←ドストエフスキーにもあるが、人は自由を求めているのだろうか。何かに依存することこそ人間の本質であるとも思う。歴史的に見ても人は何かしらに依存してきた。
だが、支配者層が被支配者層よりも甘い蜜を吸っているのも確かである。そしてある程度の支配するための苦労も必要だ。

 現代で考えてみると、被支配層は以前よりかは力を持ち始め、今後支配層と被支配層の差は少なくなっていくとも考えられる。これがマルクスの言うところの共産主義につながるかは分からないが。インターネットの広がりや、フリーランスの広がり、新たな職種の誕生により、被支配層の自由は増えてきている。むしろ監視社会である現代で、雇う側である支配層の自由は以前ほど大きくはなっていないのではないか。また、労働者階級を脱し、資本家になることの敷居も明らかに低くなり、皆が支配者層になれる時代である。
 そう見ていくとマルクス時代のブルジョアとプロレタリアートの対立構造は現代に当てはまらないのかもしれない。
 では、現代の闘争は何か?
 個人の中に闘争は見れないだろうか。闘争の目的を見失った現代人は、自分自身が大きな敵であるとも言える。生きる目的、繋がり、虚栄心、幸福感。高度資本主義社会の中で、私たちは具体的な敵を見つけ出すことが難しくなっている。世界を見渡せば、まだ戦争や紛争が起こっているが、日本に暮らす私たちは遠い国の話としてしか見えていない。いわば、私たちは大学生の夏休みのような間延びした状態にある。何もしなくてもある程度は生きていける。何も考え無くてもある程度は生きていける。必死に働いたり、人間関係を築こうとするが、何か虚無感を感じる。それが私たちの生きる目的とリンクしないからだ。私たちは常に生きる意味をもとめている。それを探しているのだ。
つまり、現代社会という檻の中で、いかに社会というルールの中、人生の限られた時間の中で、自らを満たす方法を見つけ、実現させていくかということである。
その過程こそが個人の中の闘争であり、戦争である。だが、それは簡単なことではない。私たちは自分自身を、あまりに知らない。何が好きで、何をもとめていて、何によって満たさるのか。そして、自分の価値が実感しにくい現代で、至る所て゛精神疾患という落とし穴が今か今かと私たちがはまってくるのを待っている。
 強く生きろという人がいるが、そんなのはなんの効果もないただの雑音だ。自分らしく生きろというが、そんなのただの戯言にきこえてならない。
 そんな中で自分自身を見つめながら、人との繋がりを持ち、自分自身が満たさせる方法を探していくという、私たちは歴史的に見ても高度で自立的で、主体的な生き方をしていかなければならないのかもしれない。それは、十分に闘争という険しさで形容するに値する過程である。
 ただいつでも方法はあり、そして希望はある。必ず。それは間違いない。

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